84 アノミー(4)
「安達、連れが迎えに来てるけど」
「……連れって誰の事?」
「鍋島っていうデカいの。連絡とか来てないの?」
美緒が郁人のスラックスのポケットから頭を見せている携帯を指さすと、郁人は手に取って慣れない素振りでロックを解除する。
「来てる。気づかなかった」
「通知オンにしとけば。それでどうするの、彼だけ先に帰した方がいいのか、あんたももう帰るのか。あたしのおすすめは後者だけど」
夢はまだ泣きじゃくっていて、今日は話にならなさそうだ。と言っても聞きたいことは大方話してくれた。この話の様子だと、夢もはじめはほたるのことを今までの男性たちと同じ感覚で扱っていたが、途中で本気になった性質だろう。
一つ聞けていないのは、ほたるがどうして数年前のゲリラライブを模倣しているのかということだけ。夢が関わっているのではないか、と目星をつけていたのだが。
「……帰るよ」
「あっそう」
夢がこの調子ではダメそうだと、郁人は見切りをつけて立ち上がる。
「須田さん、こいつのこと見送ってくるから待っててください」
夢は赤く濡れた目元を擦りながらこくこくと頷く。
部屋を出て、美緒は扉に半分寄り掛かるようにため息をついた。
「さっきは急に取り乱して悪かったと思ってる」
「
「……あんたって実はまともなこと言うんだ」
「実は、って何? 初めてそんなこと言われたんだけど」
エレベーターホールの下に降りるボタンを押す。上の階から降りてくるように光るボタンを眺めながら、美緒はぽつりとつぶやいた。
「鍋島って子と付き合ってんの?」
エレベーターから微かに漏れる電子音だけを耳が拾う。
郁人は美緒の質問に沈黙で返した。
「ごめん、不用意に聞くような事じゃなかった。それこそ偏見ね。須田さんにも、ほたるにも強い言葉を使わないから……見てないところで使ってるのかもだけど。でも、仲間意識があるんじゃないかって、ちょっと思っちゃった。悪かったわ、変なこと聞いて」
「……征彰が言ったの?」
「言ってない。柔軟剤の匂いが一緒とは言ったけど」
美緒が力が抜けるようにずるずるとその場にしゃがみ込むのに、郁人も隣にしゃがみ込む。目線を合わせて、これなら声を潜めていても互いの声が聞こえる。
「どう思う?」
「どう、って?」
「美緒は、気持ち悪いと思うかって話」
「……もう美緒って呼ばなくていいよ。勝手な想像であんたのこと一人だと思ってたから。名字以外だったら好きに呼んで。きっと彼が嫌がるでしょ」
「それは思わないってこと?」
「思えない、そんなこと。思えるわけないじゃん。初恋もまだなの、これから女の子が好きになっちゃうかもしれないし、そうじゃないかもしれないけど。それに自分がチョコアイスを凄く愛していたとして、ラムレーズンが好きな人間を迫害なんてしないでしょ」
「そうだね。チョコアイス好きなの?」
「ううん。ラムネアイスがいい」
エレベーターが口を開けて、二人分を飲み込む。一階のボタンに触れると、エレベーターは勢いをつけて下がっていった。
「うちのメンバーはみんな、ほたるのこととか、キモいって思ってない。それだけは絶対」
「伝えていいってこと?」
「伝えないと殺す」
「わかった。ちゃんと伝えとく」
エレベーターを降りるとすぐそこはロビーになっていた。椅子に征彰が座っていて、何やら傘の縫い目の数を数えている。
たまにこういうところを見ると、郁人も頬が緩む。
「征彰、待たせてごめん」
「それは良いんですけど、ちゃんと話はできましたか?」
征彰の質問に郁人が美緒の方を振り返ると、美緒は顔を逸らして明後日の方を向いた。
「完璧じゃないけど、ある程度の情報はつかめた」
「ならよかったです」
美緒は手を振る。さっさと帰れ、という意味も含まれていそうだが、郁人は振り返しかけた手を止めた。
「一つだけ、お願いしてもいい?」
美緒も同じように手を止めた。早く言えと顔が物語っている。
「事務所に余ってる着ぐるみ、あったら貸してほしい」
「着ぐるみ? 何に使うっての、そんなの」
「覆面ガードマン」
郁人の発言に美緒は首を傾げるが、しぶしぶ頷いた。
「わかった。もう来ないでとは言ったけど、次会うときはそっちに行く」
「よろしく」
美緒は二人が自動ドアを潜り抜けていくのを見送る。
去っていくのを見届けると、自身の右手を目の前にかざした。やっぱり、美緒のその手は小刻みに震えていた。
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