83 アノミー(3)
美緒が机を拳で殴りつけた。
ただ無表情で、郁人に向けるような不快感をむき出しにしたものではなかった。
美緒は何も言わず静かに拳を下げる。
夢は美緒の
「ご、ごめんなさい。偉い人たちから『何も言うな』って言われてるから、SNSにも
何も言えなくって。言い訳だけど……でも、本当に申し訳ないと思ってるの」
「それはほたるを巻き込んだことに対して、じゃないでしょうね」
美緒は怒り心頭か、敬語が外れていた。
「……え?」
「あんたが反省すべきなのはね、ファンを悲しませたことでしょ? ほたるのことは正直言ってね、自業自得。もちろんファンの
「は……あはは、さすが子役からやってるだけあってプロ意識高いんだなぁ」
防衛本能で漏らした笑いに美緒は
「ふざけんじゃない、あんたもプロでしょうが!」
美緒はそう吐き捨てると口元を戦慄かせたまま部屋を飛び出していった。郁人が追いかけようと手を伸ばすと、美緒は振り向いて「ついてくんな、ストーカー」と暴言を吐いてどこかに行く。
一人分のしゃっくりが響く室内で、郁人は椅子に仕方なく座り直すことにした。
廊下を走り抜けていく影に、幾人もが振り返る。けれど美緒は構わず階段を駆け下りて、ふらつく足のままロビーの椅子に座り込んだ。
「ああー、やっぱり言っちゃった。最低だ、あたし言うつもりなんてなかったのに!」
ロビーには自動販売機の働く微かな音と、二重の自動ドア越しの雨の音だけが響く。
美緒は頭を抱えてため息をついた。
「でもむしゃくしゃしたのは本当だし、マジムカついてきた。くそーさくらのこと恨んでやるー!」
足をじたばたさせてひとしきり騒ぐと、美緒の心も徐々に静まってくる。
特に意味もなく美緒は立ち上がると、自動販売機に小銭を数枚差し込んだ。
「なんでもいいや、もう」
本当は何でもよくないが、投げやりに口に出すと、いつもは決して飲まないブラックコーヒーのボタンを押す。ガコン、と激しい音を立てて口から吐き出される缶コーヒーを手に取ると、手の中でパッケージの白い文字を眺めた。
仲介役に上手く徹するつもりだったのに、感情をむき出しに怒ってしまった。感情のコントロールすらできないなんて、自分は人間として失格だ。
美緒は冷たい缶コーヒーを額に押し付けて目を
そのとき、ロビーのインターホンが鳴らされたのに顔を上げた。精神統一を邪魔しようなんていい度胸だ。
この時間帯、人が訪問することはまずない。なので警備員や受付の人も休憩中のはずだ。残念なことにロビーにいる美緒だけがその音を聞いたようだった。
自動ドアを潜り抜けて外に出ると、服を着た長身の高校生が立っている。
「誰。面接か何か?」
肩に大きめの鞄、それから何が入っているのか知らないがビニール袋を左手に持っている。
外は雨が降っているようで、傘を片手に持つ青年に中に入るよう促した。
誰、と尋ねておきながら見知った顔だった。
彼は首を振って美緒の誘いを拒絶する。
「中に入るわけには。知り合いがここにいるかもしれなくて寄っただけなので」
「知り合い?」
彼の鞄にはアルファベットで『FuryoGakuen』と書かれている。細かい編み目の灰色のスラックスには見覚えがあった。同じ制服を着てやってきたやつを美緒は知っている。
「もしかしてあんた、安達郁人の知り合いってこと?」
「ここにいますか?」
「いるけど、あいつとどういう関係?」
「……学校の先輩です」
美緒は首を傾げる。
それは嘘ではなさそうだが。
「一緒に住んでんの?」
美緒の発言に青年は目を丸くして固まった。
「な……なんでそう思うんですか」
「同じ柔軟剤の匂いがしたから。あんまりないじゃん、洗濯ものの匂いが被ることって」
彼は鼻に服を近づけて匂いを確認する。その行為は本人がいないと確認しようがないと思うが。
「分かりやすいですか」
声を潜めて尋ね返すのに美緒は首を振った。
「あたし、元から割と鼻いい方だし気にしなくていいんじゃない」
それよりももう一つ聞きたいことがあるんだけど、美緒はそう切り出すとスラックスの裾が濡れている彼をロビーに押し込んだ。
ちょうど手の中にあった缶コーヒーを押し付けてみる。
「飲む?」
「良いんですか?」
「あたしブラック飲めないんだよね」
「じゃあ、いただきます」
飲めないのにどうして買ったんだとは聞かないでおいてくれるらしい。
「それでもう一つ聞きたいことって」
青年はプルタブを押し上げて一口飲むと尋ねてきた。
「うん。あんたいつもライブに来てくれてるよね。瑛史郎と一緒に」
「ファンの顔みんな覚えてるんですか」
「よく来てくれてる人の顔は大体わかってるつもり。それにあんたは決まって、瑛史郎と一緒に来んじゃん」
「中学の時からの友人なので。というか中原と知り合いなんですか?」
「そんなこといいから質問に答えて」
「あ、はい」
美緒の理不尽な切り返しにも対応は抜群だ。柔軟さには我ながら驚かされる。本当に安達の知り合いなのか、あのバカ真面目と。
「瑛史郎はあんたと同じ高校に通ってんの?」
「同じクラスです、けど」
「風稜、って鍵島の私立よね」
わかった、と美緒は一人で頷く。
「いろいろ聞いて悪かったわね。安達のこと、呼んで来たらいい?」
「お願いします」
「あ、名前聞き忘れてた。あんた、名前は?」
「鍋島征彰です」
「わかった、鍋島ね。呼んでくる」
背中を向ける美緒を見送りながら、征彰は手の中に残った缶コーヒーを飲み干した。
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