82 アノミー(2)

 須田夢が芸能界に足を踏み入れたきっかけは中学二年生のとある番組だった。


 街中の女子小中学生に『T.O.I』の認知度を調査しよう、そんな企画だったと思う。『T.O.I』のデビューメンバーが一期生と二期生、少しの三期生で構成されていた当時は、練習生に三、四、五期生が控えていた。

 その番組は簡単なインタビューはその場にいるスタッフが行うものの、踏み込んだ質問などは当時の『T.O.I』メンバーたちが直に尋ねるというシステムだった。


「何歳ですか?」


 スタッフに向けられた人生初めてのマイク。夢はそれを見つめたまま口を開いた。


「中学二年生です」

「知ってるアイドルとかいます?」

「ゆめ、あんまりそういうの詳しくなくて」


 引っ込み思案で人見知りだった夢は、テレビ番組のインタビューに酷く緊張した。


「この番組は『T.O.I』っていうアイドルの番組で、『T.O.Iの調査会議』っていう番組なんですけど」


 確か夕食時間帯に放送されていたものだ。おそろいの衣装に身を包んでひな壇に何人もの女性が座っているやつ。夢は咄嗟に思い出して頷く。


「知ってます」

「お。じゃあ、スタジオと繋いでみましょう」


 それが初めてテレビの人と話した経験だった。

 その場で映されている手前の何人かが夢に手を振る。


「うちらのこと知ってる?」


 そう尋ねたのは当時のセンターだった人だ。

 幾つかの質問をされて、言いよどんでも、彼女たちはにこにこと笑って「そっかそっか」と言ってくれたのが印象的だった。優しかった。


「ね、ね。君さ、オーディションに受けに来てよ」


 センターの彼女は唐突にそう言った。


「次のオーディションね、うち、特別審査員やるんだ。受けに来て。一緒にアイドルやらない?」


 おそらく、あまりテレビで言うべきではない文言だったのだと思う。周りのメンバーがぎょっとしてざわめきだっていたからだ。


「君、かわいいもん。うちが保証するよ。すごいアイドルになれる」


 夢はその一か月後に開催される『T.O.I』の六期生オーディションに母親と応募した。自分から何かをやりたいと言ったことがなかったので両親は応援してくれた。


 そしてそれは、順風満帆な人生の始まりだった。

 夢は練習生に四期生も五期生も混じる中で、唯一六期生からデビューメンバーに選ばれることになった。それが中学三年生の時。新曲のメンバーに選ばれ、すぐに初めてアイドルとして地上波デビューする日がやって来た。

 それはライブ放送の大型音楽番組。いろんな同業者からバンドから出演する番組で、夢は緊張しきっていた。

 ステージの向かいには、別のバンドやアイドルグループのファンも混じって座っている。共演者も数もスタッフの人数も夢を縮み上がらせるのに十分だった。


「大丈夫?」


 CM休憩で声をかけてきたのは隣に座っていた別のグループの女子だった。夢の顔色はあまり良くなかったように映ったらしい。


「初めて見る顔、新しいメンバーの子よね。テレビ初めて?」


 同業者だからか、彼女は『T.O.I』をよく知っていたようだ。そして、夢が初めてテレビに映ることも。


「私の水飲んでくれていいから、ゆっくり深呼吸して」

「は、はい」


 足元に置かれていた水を手渡される。自分の分はすでに空になっていた。

 吸って吐いて、指示通りに呼吸を落ち着かせてみる。


「カメラが怖いならカメラマンさんの方を見るのも手よ」


 よくわかっている。黒々としていてスタジオの照明に反射するレンズが、吸い込まれそうで怖かった。それが何台も。

 助言に救われた思いで、夢は呼吸を整えていく。


「大丈夫、あと二十分だからね」


 忘れられなかった。アイドルの先輩として、その赤い衣装を身にまとった人が。次会うときには、ちゃんとしているところを見せようと思った。

 そして次に出会ったのは雑誌の撮影現場。

 デビューと注目の新人として夢はいくつもの雑誌から取り上げられることになって、その人はそのうち一つのレギュラーモデルだったらしい。

 撮影の最中、カメラの裏で夢は声を掛けられた。


「カメラはどう、慣れた?」


 前に会った時から二週間後のことだった。その間に幾つかの番組に顔を出し、その上『T.O.I』の冠番組の撮影も行っていたので、以前のような緊張感はなくなっていた。胸を張って答える。


「大丈夫です」

「ならよかった。調べたらあなたって私と同い年なのね」


 夢は驚いた。メイクのせいもあるのかもしれないけど、到底同じ年齢には思えなかった。落ち着きがあって、すごく大人な人。


「これからもよろしくね、ゆめちゃん」


 ファンと同じように彼女は言う。

 夢は自然とその腕を掴んでいた。自分の行動に自分で驚いたのは忘れられない。


「ゆ……、ゆめって呼んでください」

「……」


 彼女は少し驚いた顔をして、それから意地悪に笑みを浮かべて首を傾げる。


「どうして?」

「そ、それは。うちの先輩たちと同じくらい尊敬してるから」


 面食らった顔をした。彼女もこんなふうに気の抜けた顔をするんだ。夢は少しだけ優越感を覚えた。


「……わかった。ゆめ、また会ったらお話しましょう。お仕事頑張ってね」


 実は、須田夢はアイドルという職業を舐めきっていた。

 恋愛禁止の事務所にも関わらず、同じ事務所に所属する若手の売れない俳優と付き合ってみたり、人並みに恋愛をしたりしていた。とはいえ、いつも暖簾に腕押ししている気分だとフラれては、「女みたいなこと言うんだなぁ」と思っていた。なぜならいつも付き合う時は、向こうからの告白だったからだ。


 最後の彼氏にフラれたのは撮影現場の楽屋だった。ドラマの──サブ役だったが──出演が決まって、その売れない俳優は横を通り過ぎるだけのエキストラをやっていた。

 別の撮影でたまたま通りかかった彼女は夢の楽屋をノックした。ノックに応答しないのに、彼女は疑問に思っただろう。

 まさに、別れ話の最中だったからだ。

 すぐに当時付き合っていた彼は、ひとしきり夢に罵声を浴びせると部屋を飛び出していく。彼女は驚いた顔で、なにがあったのか夢にすかさず尋ねた。


「ゆめの方が売れてるのが気にくわないって」


 ぶすくれたまま夢は言う。


「……もしかして付き合ってたの?」


 彼女の疑問符に夢は躊躇ためらいなく頷いた。

 彼女はおそらく夢に失望したと思う。けれど続けた言葉は落ち着いた二文字だった。


「そう」


 夢は次のシーン撮影に呼ばれて、彼女に行ってくると言った。撮影を終えた二時間後には、彼女は帰ってしまったのかいなくなっていた。


 少し、困っていた。

 同じ年だという奇跡に心おどって、何か通じ合っていると勘違いしていたのだろうか。

 彼女の写る雑誌を漏らさず購入し、出演する音楽番組からバラエティーまで録画をし続けていた。ファンって、こういう状態なんだ、と夢は初めてステージの下にいる人たちの感情に理解ができた。

 夢は高校一年が差し迫っていた。

 いつだったか交換した電話番号からの着信を受け取る。


「もしもし」


 電話の向こうの人物は答えない。間違い電話だろうか。


「……どうしたの?」


 小さく響いている嗚咽おえつを拾う。


「ゆめはそのままでいて」


 その一言がどうしても希望的な言葉には聞こえなかった。夢は焦りのようなものを胸に抱き始める。


「無理かもしれない。どうしよう、私、リーダーになったのに」


 その話は初耳だった。これまでのリーダーは別のメンバーが担っていたはず。

 夢はすかさずSNSの裏アカウントを開いて検索を掛ける。


──『ポップエナジー』解散の危機?! リーダー含むメンバー三名が脱退を発表


『ポップエナジー』の半数が消える。

 息をのんだ。呼吸を忘れてしまっていた。


「ほたるちゃん、どこにいるの?」

「……家」


 夢は最低限のものだけを詰め込んだ鞄を掴んで家を出た。

 それが人生を狂わせる一因になるとは到底思っていなかったわけで。




 それからは、よく覚えていない。

 おそらく夢から言い出した。


──ゆめが支えになるから、元気出して


 とか、その辺りのいい言葉を掛けたと思う。はじめは、ちょっとした親友の延長の感覚だった。

 徐々に互いを支えにしあって、知らない間に深い仲になっていて。

 実は何度かキスもした。

 夢自身はそれをどういう感情なのか自覚していなかった。行き過ぎた戯れくらいに思っていて、でもかつての彼氏たちとしたときのような不快感はなかった。それだけだった。

 だってほたるは何も言わなかったから。

 それから、少ししてほたるが女子しか好きになったことがない、という話を聞いて、今までの行為はそういうものだったのだ、とはっきり知った。それでも、離れることはなかった。都合もよかった。どちらかの家に行っても仲がいいという良いイメージのスクープしかなかった。

 刺激を求めていたのだ。生ぬるい報道ばかりで、退屈を感じていた。

 ホテルに行こう、と言った時ほたるはすごく嫌な顔をした。

 夢は悪いことを言った。


「ちょっと遊ぶだけだよ。ほら女子会とかあるじゃん」


 浅はかだった。ほたるはしぶしぶ頷いてくれて、そのホテルが女子会禁止だって知らなくて、関係は本当だったから言い訳もできなくて──。

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