77 ペルソナ(4)
まだ少し、体調がすぐれなかったらしい。
優は保健室のベッドの中で目を開いて白い天井を眺める。
授業中に椅子から転げ落ちて、クラスメイト達は随分驚いたに違いない。自分だって驚いた。あんな風に気を失うとは思ってもいなかった。
先ほどまで
養護教諭は引かれたカーテンの外から優の名前を呼ぶ。
「佐倉くん。先生、教員室に行く用事があるから、しばらく離れるわね」
「気にせず行ってきてください」
「ありがとう。すぐ戻るから」
扉が閉まる音がして、優は布団の中で携帯を取り出した。
生見ほたる、で登録された番号にメッセージを打ち込んでいく。
──今日は帰れそうだけど、そっちはどんな予定?
昨日の注射と献血の跡を手探りで撫でながら返信を少し待つ。当たり前だが、すぐ返信が来るわけもない。
マナーモードにしたときに、ちょうど優の携帯が震えた。
──伝言を預かってるの。行ってもいいかしら
伝言。誰からの伝言だろう。郁人か、はたまた花房さくらだったりして。
──わかった。待ってる
優は携帯を投げ出して、遮光カーテンから顔をのぞかせる。ざあざあと雨が降りしきっていた。小石や砂が多く水はけの悪いグラウンドにはところどころ水たまりができている。
どうして下校時間を狙うように雲は涙を流していくのだろう。昔そんな比喩を聞いたことがある気がする。
雨が降っているのは、自分の感情を自覚させるため?
優はずっと雨が嫌いだった。
昔、天気雨に悩まされていた後輩の相談を受けた時も。いやでいやでたまらなかった。頭も痛くなるし、くせ毛が波打って仕方ない。そして何よりも
鞄の中からピルケースを取り出して、指定されていた薬を手に開けた。そろそろ見慣れてきた淡いピンク色のカプセル。優の身体を普通にするには役不足なそれを口に含むと、拓実が持って来てくれた百パーセントじゃないオレンジジュースで流す。
出来れば百パーセントが良かったと愚痴を言えば、校内には売ってなかったというのだろう。優はそれを知っていて不満をこぼすのだ。
「オレンジジュースで薬飲んじゃいけないんだっけか」
体調が悪ければ勉強も、拓実とゲームするのもままならない。
優は体の力を抜いて白いベッドに倒れ込んだ。
「おかえり」
赤いギンガムチェックのエプロンは、なんだか家庭科の調理実習のようだと思った。しかし、ほたるは言葉を飲み込んで「ただいま」を代わりに口にする。
「倒れたって。大丈夫なの?」
ほたるは洗面台で手を洗うと、スーツケースを室内に引き上げた。
「大丈夫。ちょっと、体調管理がなってなかった」
「季節の変わり目だもの。お大事にね」
優はキッチンに立って、みそ汁の
視界の端に映る赤いスーツケースの存在だ。ほたるは決してそのスーツケースを家では開かない。もう片方には日用品から衣服までが詰まっていることを知っているのだが。
リビングにいるほたるが優の名前を呼ぶ。
「どうかした?」
「この漫画、五巻から読めてないの。読んでもいい?」
「お好きにどうぞ」
「ありがたく読ませてもらうわ」
出来上がった夕飯を並べると、ほたるは立ち上がって本を片付けに行った。短時間のうちに三冊ほど読んでしまったようだ。
「それで伝言って?」
手を合わせて白米を一口飲み込んでから、ほたるに尋ね聞く。
ほたるは思い出したように、ポケットに手を入れると紙きれを取り出した。優の目の前にそれは置かれて、優は文字を読もうと努力する。
酷いミミズ文字だが、読めるのが憎らしい。それも筆跡が自身のものに似ているから、という理由で。
「今日、帰りがけに事務所に寄ったの。そしたら、さっちゃんが『佐倉優にこれを渡して』って。私が優ちゃんの家にいること、さっちゃんに言ってたの? もしかして私が思うより仲がいいのかしら」
優は余計に
紙の文字にくぎ付けになる優にほたるは苦笑いを浮かべた。
「優ちゃん、これ読めるの? さっちゃんの字、ちょっと酷いわよね」
「多分読める。ありがと」
「ならよかったわ。よくバラエティー番組でね、ボードに書いた字が読めないって──」
紙切れに書かれたのは十桁の数字。それは〇三から始まる電話番号。東京の固定電話に用いられる頭番号だった。
夜十一時。寝室に繋がったベランダに出てその電話番号を打ち込む。
三度確認をして発信ボタンを押すと数コール後に電話がつながった。先ほど調べたところ、この番号はコスモスプロダクション──いわゆる
指定された時刻に掛けることによって、公衆電話であれ相手を限定することができる。よくミステリーもので見る公衆電話の使い方だ。
「こんばんは」
電話では聞きなれない文句に、優は少し戸惑ってから同じ言葉を返した。
「こんばんは」
「ちゃんと電話をかけてくれて嬉しい」
「それはどうも」
少しの沈黙は優が聞き返そうとするのに十分だった。しかし、優の言葉を無視して、向こうは用件を伝えてきた。
「六月二十一日、午後五時三十分」
「は?」
「私立
辻村美緒、と言えば『ポップエナジー』のメンバーの一人だったはずだ。黒を基調にした目元と強めのメイクと、人々を魅了する歌唱力というギャップが売りの。
「佐倉優、きみじゃない。行くのは安達郁人、彼一人」
「なんで急に」
「繰り返すよ。六月二十一日、午後五時三十分。私立洋南高校に安達郁人一人で向かって」
がちゃん、と公衆電話を切った音の後にビジートーンが残る。勝手に言いたいことだけ言われて切られてしまった。
向こうは公衆電話だからかけ直したとしても、もうそこから去ってしまわれては意味がない。
優は諦めて携帯のメモ機能を開いた。
──六月二十一日、五時三十分。私立洋南高校、郁人一人で辻村美緒に会うこと
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