76 ペルソナ(3)
六月十八日 火曜日
朝早くに出て行ったほたるはスーツケースを二つ、持って家を出た。
女性が化粧をしているのを郁人は久々に見た。そう言っても、ほたるのメイクは薄いものだった。軽く肌を整えて、よく見る色のついた化粧品──アイシャドウとか、リップは乗せずに支度を終えていた。
「仕事?」
メイクをしてくれるスタッフがいるときは、ベースメイクだけをして家を出ると聞いたことがある。
郁人が出かけ際のほたるに尋ねると、微笑みで返された。
優から何も聞いていなければ、郁人は「仕事があることすら一般人には言えないのだな」と勝手に理由をつけて納得していたと思う。けれど、そうはいかなかった。
今日もどこかに行くのだろうか。先週末、仙台に行ってきたように。
「安達、問三」
横の席から声を掛けられて、郁人は顔を上げる。
化学の授業中だったことをすっかり忘れていた。今は大問何番だ。たしか授業の初めに今日はハロゲンが何とか言っていた覚えがある。
「自分が答えます」
代わりに手を上げたのは声を掛けてくれた彼だった。何度かこの移動教室で一緒に実験をやっている、同じ班の生徒だ。
種田蓮生。
ノートに書かれた所有を示す名前に目をやる。
たねだれん……はす……。
「はすき、だって」
郁人が名前をじっと見つめていることに気がついていたのか、授業終わりに彼はそう言ってきた。
「ごめん」
「おう、どっちが?」
「どっちも。名前を憶えてなかったことと、答えるの変わってくれたこと。助かった」
種田は教室に戻るまでの間、郁人に話しかけてきた。彼はいつも誰と一緒にいただろうか、思い出せない。
「安達じゃなきゃ助けてねえよ」
種田は笑って言う。
「なんで?」
「安達、普段から真面目じゃん。むしろこういうミスがさ、人間っぽく見える」
「俺は生まれた時から人間なんだけど」
「まあ、ニュアンスだよ、ニュアンス」
はははは、と種田はよく笑う。
移動教室までの時間をクラスの誰かと過ごしたことはあっただろうか。そう思えば郁人はずっと一人だったことに気づいた。
すると種田は遠くから、他クラスの知り合いらしき人物に名前を呼ばれた。廊下に響く声で返事をすると
「サッカー部のやつだわ」
「うん」
種田とよく会話を交わしていたクラスメイトは。クラスに郁人と同じように一人で、浮いていた生徒は覚えがない。郁人は自分の席に腰を下ろすと、教室を見渡すように体を捻った。
ふと、思い出す。
──あいつ、女子としかつるんでねえって。ハーレム作るつもりかよ
──だれだれ
──サッカー部のだよ。名前言わせんな
郁人は日常の一部にしかとらえていなかったクラスメイト同士の会話が、脳裏に浮かんでいく。
──種田蓮生
──犬じゃん。ハスキー犬
──言うなよ
言葉は咎めているのに、語調は否定をするつもりはない。
今年になってその話は急に途絶えた。それはどういうことなのか。
──あいつ去年まで男子校にいたから女子慣れしてねえじゃねえの?
──経験値小学校で止まりかよ
郁人は教室に入ってくる種田の姿を目でとらえて、慌てて机に体を向けた。
「……」
嫌なことを思い出してしまった。
郁人は意味もなく
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