75 ペルソナ(2)

『保安局』ロビーのソファに腰掛けていると、医務局から三島が出てきた。いつも口元に笑みを湛えている三島も、今は眉も口角も下がってしまっている。郁人は思わず立ち上がりかけた中腰になって尋ねた。


「佐倉は」

「大丈夫そうです。今は点滴中で、おやすみしています」

「そう、ですか」

「しばらく、佐倉さんの薬の到着が滞っていたようです。それで、その場しのぎの薬が体にあっていなかったのか、上手く効果が出ていなかったのかもしれないと常駐じょうちゅうが」


 三島が医務局の扉を一瞥いちべつする。


「佐倉さんは今のところお薬がないと、健康で文化的な最低限度の生活が送れませんからねぇ」


 定期的な検診と毎日決まった時間に服用する薬。そして週に一度注射を打つことで、優は一般的な高校生と同じ生活を送れるようになっている。


「それはともかく、佐倉さんから『今日帰れそうにない』と伝えておいて欲しいって言われたんですけど。今日佐倉さんのお家に誰かいらっしゃる予定なんですか? 何か聞いてます?」


 郁人はほたるを思い出して返答にきゅうする。

 今言うべきなのだろうか。

『保安局』同士はつながっている以上、ほたるの望まない本部に送り返されることになってしまうかもしれない。

 郁人は少し躊躇うが、首を横に振った。


「詳しいことは。でも、伝言は預かりました」


 三島は郁人の嘘に気づいたのだろうか。少しだけ変な顔をして、信頼の証のように微笑んだ。


ください」


 郁人が三島に背を向けようとして、三島は「あ」と声を上げた。郁人は呼び止められて足を止める。


「どうしたんですか?」

「先日響子さんから聞いたんです。安達さん、連絡帳に私の名前しかないらしいですね」

「一応、大場先生の連絡先も登録してありますけど」


 三島はそういうことではない、と苦笑した。

 高校生の携帯に家族ではない大人の名前が二つ登録されているとは、かなり異質だということを郁人は分かっていない。


「何のために携帯を貸し出してると思ってるんですか。弟さんやご友人らの連絡先もちゃんと登録してあげて下さい」

「いいんですか?」

「もちろんです。無いと不便でしょう?」

「今のところ何とかなってますけど」

「響子さんがぼやいてましたよ。『私は安達くんの連絡係じゃないのに』って」


 郁人は返す言葉がなく黙り込む。響子が愚痴を言う様子が思い浮かぶようだ。


「もう、ちゃんと携帯を携帯として扱ってあげてください。それが用済みになったときには初期化すればいい話なんですから」

「……善処します」


 郁人の返事に頷いた三島は何かに反応して、パンツのポケットに入っていた携帯を取り出す。

 相手はプライベートだったのか、それとも内部情報を語る相手だったのか、三島は着信を確認してすぐには応答しなかった。

 代わりに郁人と別れるために手を振る。


「ではまた。気をつけて帰ってくださいね」


 そういうと、三島は携帯を耳に当てながらエレベーターホールの方へ早足で歩いていった。

 郁人は自身の携帯を取り出すと、電話帳新規登録ボタンを押した。な行の電話帳に覚えておいた十一桁を打ち込んで、そのまま発信する。


「もしもし」


 電話の向こうからは少しだけ驚いて息を飲む音が聞こえてきた。




 優の暮らすアパートに来たのは久々かもしれない。と言っても、建物の中に入ったことはない。そして今回も室内にお邪魔することもない。

 郁人は二階部屋に向かう外付け階段を上がると、突き当りの部屋の前で首をかしげる影を見つけて声をかける。


「ほたるちゃん」

「あれ、郁人。どうしたの?」

「今日、佐倉は帰って来れないって。学校で倒れちゃって点滴してるから」

「そうなのね。大丈夫なの?」

「お医者さん曰く、大丈夫だって」

「そう」


 ほたるは安堵からのため息を吐く。

 休日の間ほたるはほとんど出かけていたはずだが、それなりに仲は深まっていたのだろう。

 ほたるの持つスーツケースの赤い方の一つを郁人が手に取る。思ったよりも重さは無くて、力を込め過ぎた反動に少し驚いた。大きさのわりに中身は詰まっていないのだろうか。


「今日は家に来たらいいよ。俺の叔父さんが借りてるマンションの方」

「いいの?」


 ほたるは母親姉妹側の従姉だ。父親の弟である叔父とはもちろん面識がない。けれど緊急事態でもあった。


「事情を話せば許してくれるんじゃない?」

「……ありがとう。でも、同居人くんは?」


 ほたるは征彰の名前を知らないので、こう呼んでいる。同居というより郁人の居候いそうろうに近いはずだが、しっくり来てしまっていた。


「さっき電話で『良くない』って言われた。でも、仕方ないからって言ったらしぶしぶ諦めてたよ。ほたるちゃんまでお世話になるわけにはいかないしね」

「そうね」


 苦笑いする郁人にほたるは頷いた。

 二人は階段を降りて敷地を出ると、鍵島駅の方へ歩き出す。舗装ほそうされた道をキャスターが転がる音が夜の街に響く。


「芸能人って電車乗ってもいいの?」

「帽子被ってたら案外バレないものよ。みんな芸能人が電車に乗ってることを想定してないらしいの」

「じゃあ、一駅だけだけど」


 少し進んだ頃に、郁人の携帯の着信が鳴る。

 ほたるは郁人の隣で過剰に驚いて、郁人が携帯を取り出し着信音が止まるまでの一部始終をじっと見届けていた。郁人はそれについて何も言うことなく、発信主に応答する。


「やっぱりよくないです」


 相手は征彰だった。もしもしの一言すらなく、開口一番が不満の自己主張。先ほど納得してくれたと思ったのだが、納得してなかったらしい。


「明日学校で会えるでしょ」

「そんなことわかってるんですけど、もやもやするんですよ」

「なにそれ、嫉妬してるの? ほたるちゃんに」


 電話の相手との会話にいつの間にか巻き込まれていたほたるは、急に名前を呼ばれて顔を上げる。いったい何の話を。


「そうだって言ったらどうするんですか」

「どうもしない。じゃあね、もうすぐ電車乗るから」


 まだ駅にもついていないが。郁人がぶつっ、と無慈悲に会話を終わらせたのに、ほたるはおどおどとして心配を募らせた。


「今の同居人くんよね。本当に大丈夫なの? 付きまとわれて刺されたりしない? 怒らせたら『お前も殺して自分も死ぬ!』ってナイフ突きつけてくる人もいるらしいわよ」


 ほたるの後半の質問について、郁人は疑問しかなかったが曖昧に頷いておくことにする。


「大丈夫でしょ。こういうのがあると、まだ高校一年生なんだなって思うよね」

「年下なのね。仲良さそうで何よりだわ」

「それで」


 ほたるは会話の方向転換に身構える。脳裏に彼女の笑顔が浮かんで名前を空振りした。


「それでほたるちゃんは?」


 ほたるは口の中で郁人の言葉を反芻はんすうする。


「私は……」


 会いたい。本当はすごく会いたい。会ってはいけないけど、携帯だって番号が繋がらなくなって連絡が取れないけど。

 こういった寂しさはどうにも別のものに思考を向けるようにして忘れないといけない。けれど、布団の中で思い出してしまって、やっぱりここ最近は上手く眠れなかった。

 今はもう大丈夫だけれど。マンションの前に張り付いていたマスコミまで思い出してしまって、ほたるは足を止める。


「私は」


 郁人は駅の明かりが見え始めた道から逸れて曲がる。そっちは駅の方向ではない。線路を駆けていく電車内の灯りが郁人の顔半分を照らす。ほたるは電車に乗る客を見上げる郁人の横顔に目を奪われる。


「ほたるちゃん、やっぱり歩いて帰ろっか」

「……うん」


 ほたるは地面の砂利を踏みしめキャリーケースを握り締めて、郁人と線路沿いを歩くことにした。

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