73 ルビンの壺(7)

六月十五日 土曜日


 ぴこん、と自分のものではない着信音が聞こえて顔をあげる。前の席の中原なかはら瑛史郎えいしろうが机の下で慌てふためきながら携帯を操作していた。

 幸いか、気遣いかはわからないが教師は何事もなさそうに授業を続けていた。瑛史郎は安心に少し胸をなでおろしてシャーペンを握り直す。


 授業が終わり背中を突けば、焦りから来る緊張が残ったような表情で瑛史郎は振り向いた。


「授業中くらい通知切っとけよ」

「しゃーないやんか。こないだオンにしてたん忘れてたん。ていうか鍋島やって授業の板書いっこも書いてへんし、おまけに全然上達せん落書きばっか描いてるやん」


 ノートの右下のすみに書かれたいびつな棒人間を指さされる。


「パラパラ漫画だよ」

「なんやねん、しょーもな」


 ノートの右下端をぺらぺらと捲って見せると、ただ棒人間が接近してくるアニメーションになる。これは三日ほどで完成させた作品だ。中学から抜けないこの癖は征彰の勉学の成績に大きなダメージを残していた。


「でもな、その通知すごいねん」

「どんな通知だよ。画面でも光るのか?」

「普通にSNSやわ。これ、これ」


 瑛史郎のうどんの切れ端のような無線イヤホンを手渡され、左耳にかざす。

 SNSに投稿されたその十分少しの動画は一人のコスプレイヤーが曲に合わせてキレの良いダンスを見せているものだった。どこかで見覚えがある見た目をしているので、有名なキャラクターのコスプレなのだろう。彼女の周囲にはすぐにでも人だかりができて、そのアニメのファンなのか曲のファンかが群衆を成しているようだった。

 とある人のコメントによれば、その女性は妙に見られ慣れている様子で、路上に立って三曲ほどを踊るとどこかに去っていくらしい。プロ──と言えるかはさておき──の見解では彼女は本職なのではないか、アイドルをやっているのではないかというところだった。

 しかし動画の投稿主はどうやら本人ではなく、鉢合わせた人物が撮ってアップロードしたものだったので、彼女の素性も分からない。


「通知ってこれかよ」

「ちゃう。この映像は水曜のアキバのや。通知の方は今日の……三宮さんのみややって」

「三宮って」

「兵庫やな」


 彼女の活動範囲は随分広いらしい。東京から近畿まで、移動費は考えない方向性なのだろうか。


「でな、なんでおれがマークしてるかって言うとな」

「はあ」

「この人絶対『ポップエナジー』のファンやと思うねん。三、四曲踊るんやけどな、最後の締めに『ポップエナジー』の曲踊ってくんねんで、これは確定やろ。ほたるちゃんの炎上をかき消してくれてるって、もっぱら評判やし。あ、言っとくけどな、女性ファンは貴重やで。大切にせな」


 早口の説明を聞き流しながら征彰はてきとうに相槌あいづちを打った。

 ほたるの炎上、という発言に征彰は昨晩の郁人との会話を思い出す。家の前にマスコミが張っていたという話は、この炎上と関係があるのだろうか。


「本当にそうならある意味商売上手だな、この人」


 征彰は自動でリピートされる彼女の踊りを眺めていた。随分、こなれた動きをしている。とくに『ポップエナジー』の曲については、本人たちにまぎれていても見つけられなさそうな域だった。

 無名の神出しんしゅつ鬼没きぼつ系コスプレイヤー。

 征彰は瑛史郎の携帯の画面を、自身の携帯のカメラロールに収めた。

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