72 ルビンの壺(6)

 学校が管理しているにしては、随分綺麗なアパートだ、とほたるは思った。

 玄関前で足を止めているほたるに優は早く入るように促す。

 二階の角部屋。冬は寒そうだが、おかげで隣も下にも住人はいない。たしか優以外に契約しているのは、スポーツ推薦で実家を離れている数人だけ。

 ほたるは高さが太腿ふともも辺りまであるスーツケース二つを玄関口に並べると、靴を脱いで部屋に上がった。

 学校の持ち物だからか、あまり値段もしないし部屋は広い、と優が言っていたのを思い出す。確かに通常の学生マンションの二倍ほどの広さがある。ここに一家族住んでいてもおかしくはない。

 ただ、圧迫感をうったえる原因がずらりと並んでいた。


「あ……圧巻ね」


 ほたるは口元を抑えて見上げる。優は冷蔵庫をのぞくのにキッチンに立つと、ほたるの興奮気味な言葉に反応した。


「兄貴がさ、新作が出たら送ってくんの。ゲームは主に格ゲーか、シミュレーションゲーム。本とか漫画のジャンルはバラバラだから、気になったら読んでくれていいぜ」


 グラスに注いだ麦茶を持って、優はほたるをソファーの前に誘導する。

 壁一面にゲームのソフトから様々な漫画が並んでいる。内容は主に青年漫画から少女漫画まで。少女漫画のジャンルは少し偏っているが。


「お兄さんの趣味?」

「漫画は主にそうだと思う。何が好きとか言った覚えはないし」


 でも、と言葉を区切ると、優は棚とは別にローテーブルの上に置かれた箱を指さす。ほたるは促されるまま箱を開くと、ゲームのソフトが三つほど入っていた。


「それは一番やるやつ。昔から格ゲーとかパーティーゲームとか、兄貴とよくやってたから」

「今もするの?」

「もちろん。相手は兄貴じゃなくなったけどな」


 優は軽く座り直すと、ローテーブルに頬杖をつく。ほたるは少しだけ身構えて正座の膝に手を揃えた。


「で、なんで俺が家に呼んだかわかる?」

「えっと……郁人がお友達のお家にいるから?」

「ちがう。そうなら、郁人は叔父の家に戻ってるよ」

「じゃあ……、どうして?」

「俺、お前のことが気に食わないんだよな」


 ほたるは優の言い分に息を飲んだ。優は怒りを前面に出さないようにか、上面に笑みを貼り付けている。

 ほたるは口ごもりながら瞬きを繰り返す。


「わがまま。そして、浅はかすぎ。郁人も響子もぜってぇ言わねーから、俺が言う。お前、どういうつもり?」


 ほたるの脳裏にはすぐにでもあの記事が思い浮かんだ。ほたるの視線は徐々に下がって、行き場を失う。

 これが、率直な意見というやつだ。SNS上のからかうような投稿も、嫌悪感むき出しのものも、それはエンタメとして捉えている人たちだけの言葉。本当に声に出せない人たちはみんなこれを抱えてほたるを憎んでいる。


「やるならもっとうまくやれよ。分かってるんだろ? 自分の立場。アンチってのは何でも言いように悪いイメージ結び付けて、あることないこと吐き散らかすんだよ。お前が幸せに恋愛したいなら、面倒なオプションで付き合うな」


 恋愛禁止のアイドルと交際したこと。それはいけない行為だ。未成年立ち入り禁止のホテルを使用したことも。

 世間様はそういった悪いことと、はずかしめたいことを無理やりひもづける。


「あんたがあんた自身の首絞めてるの、わかんないわけないだろ」


 口元が震える。

 いまきっと、世の中では同性愛への風当たりが強くなっている。ほたるの、一つの行動で。良くも悪くも影響力のあるほたるのせいで。

 ほたるが膝の上でこぶしを握り締めた時、何か重力に引っ張られる感覚がした。

 もう消えたい。馬鹿な私を許してほしい。普通になりたい。

 ほたるは無意識にそう願う。


「……っ」


 強く握りしめたこぶしとは裏腹に、腕が震えて力が抜けた。

 優がかすかな声で「きた」と言ったような気がした。

 ほたるの目から涙がこぼほおを伝うのと、それはほぼ同時だった。顔をおおった右手からどろり、と垂れ、床に落ちる前に霧散むさんしたのは。

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