70 ルビンの壺(4)

 ちゅう、とストローで飲み物を吸い上げる。

 郁人がカラオケに入ったのは人生で初めてだ。誰も触っていないタッチパネルをぽちぽちと操作してみる。郁人はアーティストなど詳しくないのでランキングらんを眺めてみて、聞いたことがある気がする、など思う。

 しかし響子と優はかなり慣れた様子で、ドリンクを取って来てくれたり時刻も相まってつまめるものを頼んだり、勝手がわかっているようだった。


「鍋島くんに連絡しておきましょうか。駅前のカラオケにいるって」

「うん。お願い」


 響子が携帯の画面を見せてくるのでよろしくお願いしておく。今のところこのメンバーで征彰と連絡を取れるのは響子くらいしかいない。

 ほたるはソファーの隅に腰掛けたままじっとその様子を眺めていた。

 しかし誰もマイクを手に取ることはない。もちろん、歌うことが今回の目的ではないからだ。


「それで、相談って?」


 ドリンクの半分ほどを飲み終えて郁人はほたるに尋ねた。

 ほたるは言いづらそうに視線を逸らして、それからまっすぐ向き直る。


「最近、また再発するようになったの」


 ほたるが『保安局』に初めて目をつけられたのは、デビューして間もなくだった、と聞いている。その時はまだ、郁人は『保安局』との関わりを持っていない。

 郁人の一つ年上のほたるがデビューしたのは彼女が中学一年生の秋のころ。半年の公開オーディションを乗り越え、当時七人でのデビューを果たした。『ポップエナジー』のメンバーとして。


「前回は……確かメンバーの卒業と加入が立て続いたときね」


 そして、ちょうど二年ほど前。今の五人で活動していくと決まったとき、どうやら世間は賛否両論だったという。


「あゆと琴子が入って来た時、私がリーダーになることに反対する人が少なくなかった」


 そういった理由の誹謗ひぼう中傷ちゅうしょうが相次ぎ、ほたるは精神的に追い込まれていた。


「それで、今回が三回目」


 郁人の確認にほたるは頷く。


「でも今回は『保安局』に言いたくないって、それはどういうこと?」


 ほたるの活動圏は東京都心部になる。そのため管轄かんかつは『保安局』本部のはずだった。


「……最近、私の担当が変わったの。変な人でね、あまりいい噂も聞かなくって。なんだか、気分でもないし」

「それで、具体的な症状は? 心当たりとか」


 ほたるの頭がはじかれたように持ち上がった。優のたまにある、無神経な切り口にはいつもひやひやとする。直接的で簡潔と言えばそうなのだが。

 ほたるは指遊びをしながら答えた。


「それは……。……私、体がけるの」


 優は唐揚げについていた爪楊枝つまようじを指先でもてあそびながら話を聞いている。


「多分、大きなストレスなんかを感じた時に、皮膚ひふが」


 前触れが無いから意図して見せることはできないのだ、とほたるは申し訳なさそうに頭を下げる。

 優の反応は一貫してぬるい返事だった。ほたるは手ごたえのなさに不安を感じ始めている。

 しかし、ほたるは何かに気づいたようにはっとして目を見張った。


「……あなた、昔うちの事務所に来たことあるでしょ?」


 優は口に運ぼうとしていた唐揚げを持つ手を止める。


「私たちがデビューする前、一度Cシープロの裏で張ってて」


 ほたるは当時を思い出しながら途切れ途切れに口にする。


「それで、さっちゃんに掴みかかって」


 郁人は確認のつもりで優の方を向いた。


「佐倉、そんなことしたの?」


 優は止めていた手を動かして唐揚げを口の中に放り込んだ。もぐもぐと嚙みこなす間に沈黙が流れる。

 口の周りについた油を紙ナプキンで拭きとると、優は軽く目を伏せながら肯定の言葉を述べた。


「した」

「なんで」


 郁人の疑問に答えたのは優ではなかった。ほたるだ。


「あの時、確かあなたは『身体からだを返せって』。もしかして『保安局』と関わりがあるのと関係してるの? さっちゃんがあなたに何かしたの?」


 ほたるの質問攻めに優は首を縦にも横にも振らなかった。すまし顔でほたるの目を見つめるだけ。


「知ってどうすんの?」

「どう……って」

「俺の代わりに花房さくらをどうかして殺してくれんの?」


 優は組んだ足に頬杖をついて浅く笑った。ほたるはぎょっとして閉口する。

 その冷えた空気を断ち切ったのは一つのバイブレーションだった。途絶えないそれは電話だ。ほたるは逃げるように自身の携帯を手にして部屋を出て行く。

 室内に三人が残って、最初に口を開いたのは郁人だった。


苛立いらだってるのはわかるけど、あんな攻撃的なこと言わないでくれる? 少なくともほたるちゃんは相談しにやって来てるんだけど」


 優は郁人のさとしには答えず、先ほどまでほたるの携帯が置いてあった場所を指さす。郁人は自由奔放な優に顔をしかめるが、ため息一つついてそれが何か尋ねることにした。


「生見ほたるは着信に過剰な反応を示していた」

「過剰? 俺は気にならなかったけど」

「俺は気になった、っつってんの。バイブレーションで一回、着信の名前を見るのも躊躇ってた」


 バイブレーションくらい誰だって驚きそうだ、と郁人が反論しようとする前に、すかさず響子は優に肯定する。


「確かに、普段から携帯を使っているだろうし。それにしてはびっくりしすぎかもしれないわ」

「しかも、バイブレーションは自分で設定してんだから、あれはかなり過剰な反応。これより、簡単に仮説を立てるなら『今回の発症に携帯、インターネット、事務所のどれかが関わっている』ってところ」


 優は自身の携帯を操作すると、とあるニュース記事を表示して、二人に見せた。


「『レズ疑惑!? ポップエナジー生見ぬくみほたるとT.O.Iトイ須田《すだ

ゆめ、交際中か』」


 あまり好意的な文章ではないことが分かる。優が読み上げた文章に郁人は疑問を口にする。


「なにこれ」

「今週の月曜日、こんなスクープが出た。この報道により彼女らはただいま謹慎きんしん中」


 響子がちらりと扉の外を確認する。ほたるはまだ電話から帰ってきていない。


「軽く説明すると、この須田夢ってアイドルは『T.O.I』っていう恋愛禁止のアイドルグループにいる人気絶頂中のメンバー。そんな彼女が生見ほたると激写された。どうして問題視されてるかって言うと」


 優がページトップの画像を拡大する。


「この写真はラブホテルから出てくるところ。まず、未成年がそこを出入りするのは法律で禁止されてる」

「でも最近ラブホ女子会、って聞くわよ?」

「中で何やってようが、まず未成年は立ち入っちゃいけない。その上ここは女子会禁止のホテルだって特定されてるんだよ」


 郁人が控えめに手を上げると、優が言葉を切った。


「話遮って悪いんだけど」

「うん?」

「ラブホテル、ってなに?」


 優と響子は押し黙る。

 郁人はからかっている素振りでもなく、純粋に首をかしげている。

 どうせ可愛い装飾のホテルくらいにしか思っていないのだろう。従姉がホテルでにゃんにゃんしているというのにこの差は、と優は間違っても口に出してはいけない考えを脳内で終わらせた。


「分かった、簡潔に言う。ラブホテルっていうのは主に性交渉のためのホテルだと思ってくれたらいい。はい、おしまい」

「わざわざそういうことするのに、ホテルに行く必要性ってあるの?」

「うるさい。これ以上は鍋島に聞けば解決してくれる」


 優の回答では納得がいかなかったのか、郁人はしばらく腑に落ちないという表情をしていた。しかし優は構わず話を戻すことにする。


「とにかく、生見ほたると須田夢は女子会禁止のホテルから出てきたところを撮られてしまったってこと」

「それがまずかったから、謹慎ってこと?」

「そう。まず一つ、未成年が立ち入っちゃいけないところに立ち入ってること。二つ、須田夢のグループが恋愛禁止だということ。まずくはないけど三つめは、二人が同性愛者だったってこと」

「でも、はいろいろ配慮が行き届いてる気がするよ? 同性での結婚が認められてたり、国が随分ずいぶん協力的って言うか、グローバル思考と言うか」


 郁人の発言に優は首を振る。


「いや。全部、早急すぎたんだ。もっと議論を重ねてゆっくり進めたらよかった話なのに、社会の女性進出が早すぎて政治家の四割女性化が簡単に成し遂げられてしまった。それによって少数派の声が大きくなりすぎたんだよ。これは結構ヤバい」


 次に疑問符ぎもんふを浮かべたのは響子だった。それに、優は静かに答える。


「少数派の声が大きくなりすぎると、多数派が逆にしいたげられていると感じ始める。すると、寄ってたかって少数派をいじめ始めるんだよ。おかげで政策は進んでいる割に、差別的思考の人間が多すぎるっていうのが現状」


 早く事を進めすぎると、多数派と少数派の分断が起きてしまう。本来であれば少数派の考えも取り込みながら静かに進めていくべきだったのだが、強行突破の積み重ねでかえって少数派が生きづらい世界になった。

 芸能人の同性愛報道について、嫌悪感を抱いている人は少なくない、と優が見出す意見に郁人は答えられなくなっていた。

 おまけに、芸能人の多くは人として見られていない。そういうもの、商品、概念だけが独り歩きをして、前提である『一人の人』ではなくなっている。つまり、こういうキャラクターだ、というイメージに体がくっついただけの生き物になってしまっているのだ。もちろん、脳内で思い描いているイメージを崩されると、ファンは怒ったり失望したり狂気を示さなくなる。解釈不一致というやつだ。

 見計らったように開いた扉から、ほたるが顔を覗かせた。


「用は済んだ?」


 優は何気ない話をしていたような雰囲気で尋ねると、ほたるはうっすら笑みを浮かべて頷く。


「ええ。マネージャーからだったわ」

「そう」


 ほたるは郁人を視界にとらえると、申し訳なさそうにうつむきがちに口を開いた。


「それでね。……もう一つ相談があって」


 郁人が促すと、ほたるは躊躇ったのちにしぼり出す。


「家に、泊めて欲しいの」

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