69 ルビンの壺(3)

 きゅ、とシューズと床がこすれる音が聞こえてくる。

 雨から逃れながらたどり着いた体育館では、湿り気など関係なさそうに部活動をやっていた。躊躇ためらいがちに扉に手をかけると、郁人が力をめる前に扉が開く。

 男子バレー部の新しい女子マネ、と言っていた生徒だ。征彰が言っていたちょっと苦手な女子、だ。名前がすぐに思い出せないのが問題だったが。


「えっと……」


 言いよどむ郁人の代わりに響子がにこっと笑って彼女に挨拶あいさつをした。


「こんにちは。部活中にお邪魔してごめんなさいね。鍋島くんにちょっと聞きたいことがあって、難しいようならあなたが聞いて来てくれる?」

「……何ですか?」

「傘を持ってきているかだけ、聞いて欲しいの」


 女子マネは響子の表情を窺うように頷くと、パタパタと体育館の奥に走っていく。彼女はトスの練習の列の最後尾に並んだ征彰にこっそり話しかけると、征彰は察したように扉の方に首を向ける。そしてすぐに首を横に振った。


「持ってきてないのね」


 女子マネは再び郁人たちにところに走り寄ってくるので、郁人は自分の傘を彼女に渡した。


「これ、征彰に渡しておいてくれる?」

「……。わかりました」


 彼女は受け取った傘を見つめて、それから顔を上げて郁人の顔をまじまじと見る。けれど何も言うことなく、ぺこりとお辞儀じぎをした。


 雨足は途絶えない。

 響子から借りた郁人が差すには可愛すぎる折り畳み傘を広げながら、郁人は相合傘するチェック柄の二人の傘を見る。どちらの傘を差していてもきっと変わらない。

 三人は体育館に背を向けた。




「あっ」


 響子が声を上げて立ち止まる。傘の淵に頭をひっかけた優もまた立ち止まるので、郁人はやっと振り向いた。


「なんだよ」


 傘の骨に髪をひっかけられた優は飛び出た髪を抑えながら唇を尖らせる。


「あそこにいるの、生見ほたるじゃない?」


 声を潜めて指をさす先は校門の前。

『ポップエナジー』という女性アイドルグループのメンバーの一人とそっくりの女性が、傘を片手に俯きがちに立っている。特徴的な顎で切りそろえられた髪は手入れが行き届いていて、耳から零れる髪もきぬの様だ。


「ほんとだな」

「知り合いにでも会いに来たのかしら。にしてもあのスタイル良さ、リアルで見ると半端じゃないわ。オーラから何か違うもの」


 流石モデルとしてランウェイ歩いてる人は違う、と響子は感嘆の声を漏らす。


「知り合いと言えば、うちのクラスの子かしらね。ほら私の前の席の──」


 優が曖昧あいまいうなずきかけた時、女性は顔を上げてきょろきょろと見渡すと、ぴたりと郁人に視線を合わせた。


「あ、郁人!」


 名前を呼ばれた郁人自身は、薄い反応で手をぱっと挙げるだけをする。まさか自分だとは思ってもいなかったが、おかしな話でもなかった。今朝、テレビで見たばかりだったからかあまり懐かしさはない。


「よかった。帰っちゃったのかと思った」

「……は、え?」


 響子は目を白黒させて状況が飲み込めないでいた。情報を処理しきれなくてフリーズしている。


 国民的なアイドルと同級生が知り合い? しかも、特に芸能に興味のなさそうな郁人が。


「ちょっと相談があって来たの。いくら連絡しても返ってこないから、颯人はやとにも連絡してね。そしたら郁人は携帯が壊れたから持ってないって言うんだもの」

「ごめん、言い忘れてた。颯人越しにでも伝わってよかったよ」


 あまりにスムーズに会話が進むさまを見て、響子は置いてけぼりにされていた。そんな響子に気づいたほたるは、落ち着いた様子で柔らかく微笑んでみせる。


「郁人がお世話になってます。従姉いとこの、生見ぬくみほたるです」

「い、従姉……?」


 響子は動揺しつつも二人の顔を交互に見る。

 確かに、なんとなく似ている。雰囲気は似ても似つかない感じだが、目元の雰囲気や輪郭りんかくがうり二つだ。従姉弟どころではなく、姉弟と言われても納得できるほど。芸能人が親戚にいる郁人なのだ、人よりの容姿はいいに決まっている。と、妙にに落ちてしまうのが気に食わなくもある。


「……でも本当に? だってあなた『ポップエナジー』がなんたるか、ちゃんとわかってなかったじゃない」

「俺も最近知ったんだって。ほたるちゃんが芸能界……アイドルだっていうのは知ってたけど、『ポップエナジー』のメンバーってことは知らなかった」


 ほたるは郁人の言い分にくすくすと笑っている。


「う、ウソでしょ……。だって生見ほたるって、日本最大級のランウェイ歩いて、『ポップエナジー』の新曲はだいたい二週間もするとミリオン達成してて、若者だったら一曲は歌えるくらい有名グループなのに!」

「しょうがないでしょ。ほんとに興味なかったし」


 響子の言い分では郁人は若者の類に入らないことになるが、それはさておき。

 響子がほたるに視線を送るが怒っている様子は微塵ともなく、そういう人間だと割り切っているようにさえ見える。

 一息ついて、響子はもう一人冷静な人物がいることに気が付いた。


「それに、優ちゃんはどうしてそんなに落ち着いてられるの」

「え? 知ってたから」


 あまりにさりげなく言うので、仲間外れにされていたと勘違いした響子は郁人をにらむ。


「安達くん、優ちゃんには言ってたってこと?」

「いや、言ってない」

「『保安局』のデータベースに名前が載ってたんだよ。生見ほたる本人のカルテもあったし、『保安局』関係者だぜ」


 優は不躾ぶしつけにもほたるに人差し指を向けた。


 ほたるは口開けて驚いている響子に、眉をハの字にして微笑みかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る