68 ルビンの壺(2)

六月十四日 金曜日


 空気の中にある若干の湿り気は不快感を与えるのに十分だったらしい。

 安達あだち郁人いくとはすっかり慣れてしまった白いシーツの中で目を覚ました。まだ起きるのには早い時間、郁人は『保安局』から借りている携帯のまだ役目を始めてもいないアラームを確認してオフにする。外は曇り空らしく、郁人は少しだけ憂鬱ゆううつな気分になりながら身を起こす。

 ふすまを開けると、キッチンの方からじりじりと焼ける音と水が沸騰ふっとうするのが聞こえてきた。


「おはよう」

「おはようございます」

「今日は時間に余裕あるの?」


 郁人はあくびを一つしてキッチンの前を通り過ぎる。もう見慣れた洗面所で顔を洗いリビングに戻ってくると、小さな鍋に向かって何かに苦戦している鍋島なべしま征彰まさあきが答えた。


「時間はいつも通りです。今日は朝のランニングを早めに終えたので、久しぶりに何か作ろうと思って」

「あるよね、そういう気分の日」


 衣替えで夏の制服にエプロンをしている征彰は鍋からそそくさと離れると、オーブンから六枚切りの食パンを二切れ取り出した。鍋の中からお玉にすくい上げられたのは二つのポーチドエッグ。

 郁人が着替えて戻ってくる頃には、朝食は出来上がっていた。セーターを調子を整えながらキッチンに立ち並ぶ。

 焼いていた食パンはてっきり二枚だと思っていたが、重ねて焼いていたらしく正しくは三枚だった。征彰の皿の上に二枚が乗っている。朝から随分ずいぶんたくさん食べるものだと郁人は感心しながら、グラスを取り出して牛乳を注いだ。


「郁人くんも食べますか? ポーチドエッグ」

「ううん。俺はバターだけでいいや」


 郁人は冷蔵庫から取り出したバターを焼きたての食パンの上に落とすと、自分の皿とコップを持ってダイニングの定位置に着く。

 しばらくしてジャムを塗ったパンの上にもう一枚乗せて、その上にポーチエッグを飾った皿を持って征彰が郁人の目の前に座った。


「そういえば、知ってる?」

「なにがですか?」

「トーストにポーチドエッグ二つで『いかだに乗ったアダムとイヴ』って言うんだよ」


 丸太をつなげたいかだで漂流ひょうりゅうする男性と女性。征彰はそんな絵が思い浮かんで首を傾げる。


「ポーチドエッグってゆだってますけど、いいんですか? アダムとイヴ的には」

「場合によれば目玉焼き二つでもそう言うらしいよ」

「焼かれてるけどいいんですか?」


 肩をすくめるだけで郁人は征彰の疑問に答えず、テレビで流れている朝の情報番組に目を向けた。

 朝からスーツを着て原稿を読み上げているアナウンサーは大変だ。芸能に関するコーナーが始まって、郁人は意図的に意識を向ける。


──六月二十三日に生放送でお届けする『ザ・アーティストデー』の出演者が、発表されました


 映像には日本を代表するアイドルたちや、ドラマの主題歌で知名度を上げたバンド、国際的に活躍する歌手などが取り上げられている。その中には見知った顔もいた。

 それなりにやっているのだな、と他人事らしくどこかで考える。


 郁人が咀嚼そしゃくを止めているうちに、征彰はパン二枚とも平らげてしまっていた。さっさと皿を片付けて、すでに肩には鞄が担がれている。

 朝は特に食べるのが早い。郁人の二倍の量をどれほどの速度で咀嚼しているのだろう。


「じゃあ、先行ってきます」

「ああ、いってらっしゃい」


 生返事になる郁人は、続けて表示された今日の天気を眺めていて、はたと気づいた。


──午後の降水確率は八十パーセント。通勤通学の際は傘をお持ちください


「あ、傘」


 郁人が立ちかけたタイミングで、玄関の扉が閉まる音が聞こえた。




 しとしとと雨が降り始める。朝の天気予報はばっちり的中していて、傘を持ってきていてよかった。

 窓に降り落ちる雨粒は小さくて繊細せんさいでまさに梅雨という感じ。自己主張も控えめで、毎年申し訳なさそうにたまった湿度をこぼしていく。


「あーあー、傘忘れた」


 雨音にやっと気づいた優は手の中のシャーペンをくるりと弄んでから伸びをした。


「じゃあ、私の傘に入れてあげる」


 そう言った響子は思い出したように鞄の中を漁って、一本折り畳み傘を取り出しす。紺色の装飾が少ないそれ。淵はゴールドでふわふわと雲を形どるように波打っていて、たまにそれを口に見立てた『にこちゃんマーク』で飾ってある。


「おー、シンプルでかわいい」

「でしょ。雑貨店に売ってたの、衝動買いしちゃった」


 どうぞ、と響子が優に手渡すと、優はありがたく借りることにする。


「安達くんは傘あるの?」

「うん。俺は」


 雨の降る外を眺めながら鞄の中の折り畳み傘を思い出すが、郁人が考えるのは今朝の出来事。

 征彰は傘を持ってきているのだろうか。おそらく忘れている。

 今朝の予報だと梅雨入りで降水確率は八十パーセント。あれは梅雨の時期ではなかったが、前にも何度かずぶ濡れになっていたのを見たことはある。征彰はその辺り無神経なのか、学校から傘を借りるでもなく、よく雨の中に突入してしまうらしい。


「今日、『保安局』に来るのよね?」


 響子が郁人に向けて発せられた質問に、郁人は素直に頷く。


「その予定だけど」

「なら、鍋島くんにあなたの傘渡しちゃえば? 相合傘するし」


 私たちは、と響子は優と目を合わせる。優はただ素直にこくんと頷いた。響子は郁人が何を考えていたのかわかっているように話を続ける。


「……」

「もちろんだけど、あなたと一緒の傘はイヤよ? 狭いし苦しいし、身長差もあるから私が濡れちゃう」

「別にそこはどうでもいいんだけど。……わかった、ちょっと聞いてくる」


 荷物をまとめて椅子から立ち上がると、二人も同じように広げていた勉強道具を鞄に詰め込み始めた。


「俺も行く」

「私も」


 優はカーディガンのボタンを留めるとリュックを背負う。

 雨が降れば湿気が溜まる。じめじめとし始めて気分も下がってきた頃だ。


「じゃあ、鍵閉めるよ」


 郁人は生徒会室の錠に長細い奇妙なキャラクターがついた鍵を差し込んだ。

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