62 フランベ(3)
五月二十六日 日曜日
詩乃が手に握り締めていたのは、差出人が花房さくらの手紙だった。こちらにはきちんと
──小森うたのちゃんへ
「これ、あの時くれた本に挟まってたんだよね?」
「……うん。わたす前にぬいておいたの。名前が書いてあったから」
手紙には鍋島宅の住所と、
詩乃が鍋島宅に到着したのは指定の時刻より少し過ぎた
三人──郁人と詩乃と征彰が向かう場所は『保安局』だ。詩乃が響子に会いたいと言い出したためだった。昨日の今日だが、おそらく二人を会わせてもいいだろうと思っている。これは郁人の
「詩乃ちゃんはどうしてこの手紙の通りにしたの?」
郁人の人差し指を握っている詩乃に話しかける。詩乃は
「ちがう」
「どういうこと?」
「うたのはお姉ちゃんに会わないといけないって思ったの。だったらまず、お兄さんに会わなきゃって思った」
「地図に、俺の名前があったから?」
「うん」
詩乃は目の前にそびえたつビルを指さした。
「ここにいるの?」
「そうだよ」
「お姉ちゃんに会える」
詩乃はビルを見上げると郁人の手を引っ張った。
「お兄さん、だいじょうぶだよ。うたの、泣かないから」
響子は変な表情をした。郁人を前に笑いたいような
郁人は軽く挨拶を述べながら響子の側にある回転椅子に腰かけた。
「おはよう。体調は?」
「……変な感じ」
響子は膝の上で手を握ったり開いたりした。
「昨日は急に電話をかけて悪かったと思ってるわ」
郁人は首を横に振った。もっとも電話を取ったのは征彰だったが。
「昨日電話が急に切れたのは、消滅したから?」
「……」
「それとも、和解できたから?」
響子は上目遣いになって郁人を見あげた。そして気まずそうに目を伏せる。
「たぶん、和解したから」
「ならよかった」
「──あ、あの日ね」
郁人は黙り、話を続けるように促した。
「あの日、私、箱を捨てたの」
「うん」
「そしたら……こっちが分かれたの」
ウィグナーの友人を借りて考えるのなら、多世界解釈のようだと思った。箱の中に詩乃を『いる』として観測した響子と、詩乃を『いない』として観測した響子。
「小森詩乃は私の妹。信じる私と、信じられない私に分かれた。二日くらい……はじめはどっちも干渉せずに生きていたと思う。私は普段通りに過ごしてただけだけど。でも昨日、私の知らない間にもう一人が暴走してたみたい」
「その言い分だと、詩乃ちゃんを受け入れた小森さんが、受け入れられない小森さんを取り込んだのかな」
響子は首を振った。わからないらしい。きっと無意識の行動だったのかもしれない。
会議室に二人。しかし、マジックミラーの向こうには大場も三島も白波も征彰も、詩乃もいる。郁人は響子同様、向こうの様子を知ることはできないが、みんなきっと静かにこの様子を聞いているのだろう。
「小森さんは……妹を恨んだ自分をどう思う?」
長い黒い髪が耳に掛けられる。前髪で目は隠れていたが、鼻は赤らみ始めて口は真一文字に引き締められていた。
「よく分かっていない幼かった妹を一方的に恨むのは苦しかった? だから妹を恨む自分を消して、妹の記憶を消して、新しく
響子は泣くまいとしていた。事実、たびたび押し殺すように呼吸を繰り返しては
郁人は聞かせるべきだと思った。響子の中で解決していても、その当時響子はどう思っていたのか、詩乃に少しでも知ってもらわないといけないと思った。そうでないと、今後の関係に段差ができたままでは上手く完治できたといえない。
「忘れて逃げようとして、わがままよね、私」
詩乃はこれのどれだけを理解できるのかはわからなかった。そして、どう思うのかも。
郁人は立ち上がる。会議室の扉をゆっくりと開いて、響子は前かがみに半分立ち上がるような姿勢になった。
扉の前には詩乃が立っていた。詩乃は何を考えているのだろう。いまいち表情の読めない子だが、空気はちゃんと読める子だ。
郁人が扉の方を指すと、響子は進まない
「お姉ちゃん」
「……」
「パパとママがお姉ちゃんをわすれちゃったみたいに、お姉ちゃんもうたのが見えないの?」
響子の視線は定まらない。声は聞こえているのだろうか。手を伸ばそうにもどこに伸ばせばいいのか迷っていた。行き場のない手が
「お姉ちゃん、妹はうたのだけなのに」
詩乃は響子の身体にぎゅっと抱き着いた。
響子は
そっと響子の手が
「うたの……?」
「うん。なに? お姉ちゃん」
響子の声にならない引っ掛かりだけが
ぽろぽろと響子の目から、涙の粒がこぼれていく。口を開けて浅い呼吸を繰り返して、どこか呆然としながら詩乃の背中を
詩乃は口元を
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