59 エモンデ(8)

五月二十五日 土曜日


 帰り際の靴箱くつばこ前で、猫背ねこぜの大場に捕まった。

 郁人はずいと差し出された紙の束を受け取る。表紙に大きく『保安局』とある。横から征彰が覗き込んでいたが、大場が何も言わないので大した内容のものではないのだろう。

 大場は腕を組みつつ、郁人にページをめくるように言った。指でなぞられる項目は、郁人の予想を裏付ける一つになりそうなものだった。


──五月十一日に発見されたイエネコの死骸とDNAが一致する飼い猫が発見された


「これ、俺たちが見つけた猫にそっくりですね」


 征彰が一枚の画像に対して言及げんきゅうする。


「……生きてる、ってことですか?」


 一文はそこに掲載けいさいされた写真は飼い主に抱えられている一匹の猫に焦点しょうてんを当てたものだ。あの時は見た目のインパクトに侵されていたが、よくよく見れば確かにあれは白に黒いぶちの猫だった。


「あの猫は死んでいた。それは事実だ。そしてこの猫は生きている。これも事実だ」

「あの日見たのは」

「三年前の発見された死骸を火葬した記述があったな。あれを見て安達は誰かの創造物だと推測した」


 確かにそう、考えた。

 不意に確認するようなまなざしを向けられて反射的に首を縦に振る。


「半分正解だったってことだ。どちらかと言えば誰かによるではなく、誰かによるだったってわけだ」

「実際にいる存在を複製してまで……って何か悪意を感じませんか?」

「もしくはリアリティの追求とも言える」


 大場は郁人に渡した冊子の表面をつついた。


「三島から預かったこの資料はここ一連の出来事を特別にまとめたものらしい。とりあえず確認のためにも目を通しておいてくれ。どうやら事件報告書として提出するものの草稿らしい」

「わかりました」

「よし、お疲れ様。気をつけて帰れ」


 大場はそそくさと背を向ける。どこか慌ただしそうな素振りに郁人は目を細めた。しかし疑問を抱きつつも手の中の書類を鞄に収納する。


「帰ろっか」

「……あの」


 しかし郁人の声掛けに征彰は動かなかった。郁人は思わず振り向いた。


「どうかした?」

「先週、郁人くんの叔父おじさんに会ったんです」


 そして繰り広げられたのは思っても見ない話題だった。急に叔父という単語が出てくるとは思わずに、ほうけたまま言葉を繰り返した。


「俺の叔父?」

「叔父さん、北海道に行くことになったって」

「うん。もうすでに北海道にいるけど」

「今、一人で暮らしてるってことですよね」

「うん。大変だけど、何とかなってるよ」

「それでずっと言えなかったんですけど」


 征彰はおもむろに歩き出す。そんなに気を紛らわせないと話せないような内容なのか。靴箱に手を伸ばすので、郁人も仕方なく自分の制靴を取りに向こう側に回った。


「言えなかったんですけど」

「うん」

「家に来ませんか?」


 一瞬の時が止まる。言葉の意味を上手く咀嚼そしゃくできなかった。


「……いつも行ってるよね?」

「そうじゃなくて。家から通いませんか?」

「『通う』」


 郁人はまた言葉を繰り返す。

 つまり征彰が言いたいのは、鍋島宅で一緒に暮らさないかという提案。


「どっちもほぼ一人暮らしになるので、一緒に居れば楽じゃないかって思ったんです。家、学校から近いですし……」

「……えっと」

「叔父さんは郁人くんの好きなようにって言ってくれたので。うちの両親も好きにしていいって」


 妙に必死に説明をしてくれる。

 しかしどうしてだろう、自分の知らないところで話が進んでいる気がする。完全な布石ふせきのようにも見える。

 郁人はうなり声をあげながら制靴を掴んだ。片足ずつ足を差し込んでつま先で床を突く。またこの癖をやってしまったとどこかで考えていた。思考放棄しこうほうきをしたがっているのだと客観視する自分がいることにも気づいていた。


「いやですか?」


 靴箱から顔を見せた征彰は少しだけ不安そうな顔をしていた。郁人の歯切はぎれの悪い返答に心配になったのだろう。


「嫌ではないけどさ、その、申し訳ないって言うか」

「じゃあ、言い方を変えます」

「ん?」

「協力しましょう」

「協力?」

「役割分担です。俺が料理頑張るので、洗濯せんたくしてください」

「でも征彰の家の、乾燥機付きだよね? 俺、たたむだけじゃん」

「じゃあ、あと週末とか掃除機かけてくれると助かります」


 いつになく真剣な目を向けられる。郁人は無意識に後ずさった。


「……それだけでいいの?」

「それが一番助かります」


 征彰は素早く携帯の画面を開くと郁人に向けた。家族とのメッセージのやり取りだ。征彰のクエスチョンに対して家族のアンサーが軽すぎる。


「わ、わかった。一応、俺からも叔父さんに聞いてみるから、それからね」

「わかりました。心配なら今、俺が電話します」


 なぜ征彰が叔父の電話番号を知っているのだろう。

 そうして、フットワークの軽い叔父のせいかおかげか、電車賃が浮くことになった。




 部屋番号のボタンを入力しかぎして回せば、オートロックの扉が二人を招き入れた。一階で待機していたエレベーターに乗り込むと、征彰の持っている空のスーツケースが段差にねる。

 八階の奥から二番目の部屋、つまり階段から二番目に近い部屋に、先ほどと別の鍵を挿して回すと軽い音を立ててロックが開いた。


「どうぞ入って」

「おじゃまします」


 安達、の表札が書かれた部屋に征彰は足を踏み込むと、すぐ右隣りの部屋の扉に目を向ける。


「そこの部屋は叔父さんの。入っちゃダメだよ」

「郁人くんの部屋は」


 郁人は靴を脱ぎ捨てると、リビングにつながるあたりの扉を開く。征彰もついていくように廊下を進むと、思った以上に広さのある空間が広がっていた。

 郁人が手を掛けるドアノブの部屋が目当ての場所というわけだろう。


「とりあえず必需品ひつじゅひんからだね」

「衣類とか、洗面用具とかですかね」


 郁人は征彰にウェットティッシュを手渡すと、持参したスーツケースのキャスターを拭くように言う。詰める作業は室内でやった方が効率的だ。

 征彰がスーツケースの準備をする間、郁人は部屋のクローゼットを開けた。

 元よりこの家にも必要最低限の衣類しか持ち込んでいない。郁人は綺麗に畳まれて収納されているそれらを引っ張り出して並べる。


「持ってきました」


 郁人は部屋の外からの声に応じると、入室を促した。

 征彰はスーツケースを持って、部屋の前に立っている。


「服から入れちゃおう。その次に洗面用具を袋にまとめてくるから」


 最後に、この本棚。と、郁人が壁伝かべづたいに大きく仁王におうちする棚を見上げた。

 押し込んでみると、スーツケースの半分の、そのまた半分ほどで衣類は収まった。

 郁人が部屋の外にある私物を持ってこようと立ち上がった時、征彰は本棚にまぎれて並んでいる袋に目をつけて声を上げた。


「なんですか、これ」


 征彰の視線の先を辿たどると、先日颯人の手によって帰って来たチェスセットだった。


「それ重いから、手に取る時は気を付けて」

「すごろくとかですか?」

「ううん。半分観賞かんしょう用のチェス」

「チェス得意なんですか」


 郁人は征彰の質問に再び首を横に振った。


「ううん」

「なんとか細工ざいくみたいなやつですか?」

「いや、別にそういうわけでもないかな。普通よりちょっとは高いと思うけどね。気になるなら開けていいよ」


 郁人が洗面所から歯ブラシやら化粧水をまとめて持って来ると、征彰は袋を開いていた。

 金属製とは思わなかったらしく、部屋の灯りで光の反射を見ていた。


「これでチェスできないんですか?」

「出来るよ。やったことあるし」

「じゃあなんでしないんですか?」

「したことはあるよ、得意じゃないだけで。特にこういうボードゲームは、やってもやっても颯人に負けちゃうからさ」

「オセロとか、将棋しょうぎもですか?」

「うん。びっくりするほど弱い」


 征彰は意外だったのか目を丸くする。


「多分コツみたいなのがあるでしょ。こういう盤上ばんじょう遊戯ゆうぎはさ」

「例えばオセロで言うところの角を取るってやつですか?」

「そうそう。俺は困ったことに、狙ってかどが取れないんだよ」


 征彰は何を思ったのか、袋の中に入っていたボードを取り出すと床に下ろした。それから駒を一つずつ取り出して、ボードの外に並べる。


「得意じゃなくていいので、やり方教えてもらえませんか?」

「やりたいの?」

「郁人くんが苦手なゲームっていうのを知りたくて」


 郁人は白のポーンを一つ手に取るとボード上のAの二に置いた。木製のボードに触れた金属音が軽く響く。


「それって自分も俺を打ち負かしたいってこと?」


 郁人が半笑いで尋ねると、征彰は郁人にならって黒のポーンをHの七に置いてみせる。


「いいんですか?」


 ボートの前に座る征彰を見て、郁人は同じく床に腰を下ろした。


「それは負けられないな」


 荷詰にづめに予定からはるかに時間がかかったのはこのボードゲームのせいだったに違いない。三十分ルールを教え込んで、そのあと征彰が慣れる一時間はボードの前に座っていたと思う。


 気づけば時刻は八時を回っていた。

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