58 エモンデ(7)
征彰に借りた自転車を立ち
郁人は自転車から降りると、
いつもと違って、髪も巻いていなければ化粧一つしていない。中学生の時の証明写真からちょうど三歳大人になっただけの顔をしている。服装は見たことないような薄い
「きれいな夕日」
響子は両手を伸ばして夕日を挟んでサンドウィッチを作る。ぎゅ、と押しつぶすジェスチャーをして見せるが、夕日は丸くそこにあった。
「……一日、部屋から出れなかった」
「……」
「急にここを思い出したの。数年前に言われたことを思い出して、気づいたら自転車を漕いでた」
響子は立ち上がる。ショートパンツについた砂ぼこりを払って、階段を上った。自転車のロックを外して、ゆっくりと
「安達くんは知ってる?」
郁人はその赤い
「夕日に手を伸ばして、一つずつ、
チェーンの引っかかる音二つ分だけが二人の会話を埋める。
橋の中央に自転車を止めると、橋の
「例えば、中学テストの数学の成績、とか」
夕日に
郁人も響子と同じように自転車を止めて夕日に目を向けた。
「じゃあ俺は、体育の授業のテスト。今学期、バスケだし」
「レイアップ?」
「確かそう」
「苦手そうだわ」
響子は肩を揺らして笑いながら夕日に目を向けた。
「それから……
臆病。
「そう?」
「数年前もね、ここに臆病な私を放り込みに来たの。多分、それが一人になった理由ね」
臆病でない小森響子は、一人になっても平気だ。という方程式が成り立っているらしい。
郁人は欄干に肘をつく。
「なんで、手元に帰ってきちゃったのかしら。一人でも、生きていけるようにならなくちゃいけないのに」
「帰って来たなら、それは必要なものなんじゃない?」
響子は夕日を眺める郁人の横顔を
「思い出した?」
「……ううん。でも本当に、私に妹がいるなら……私は、私が見えなくなったみんなと同じことをしてるのよね……」
両手で顔を覆う。響子は何かに耐えるように目頭を人差し指で抑えていた。表情は分からないが、きっと何かしらの後悔を
「ウィグナーの友人っていう思考実験がある」
響子は顔を覆う手をずらした。目だけを覗かせて郁人の顔を見上げる。
「シュレーディンガーの猫の応用みたいなものなんだけど」
「……聞いたことだけあるわ」
「シュレーディンガーの猫。……箱の中に猫と、一時間で
「結構
「人の手に渡る薬なんかも最初はラットで実験するからね。世の中は残酷さの上で成り立ってる」
郁人は両手で箱の形を作る。
「
「なんだか
響子は夕日から目を逸らして郁人の話を聞いていた。いつの間にか欄干に背を
「思考実験だからね。先に言ったウィグナーの友人っていうのは、シュレーディンガーの猫を人間に拡張して応用した思考実験。箱を開けて目で確認する、っていう瞬間に焦点を当てたもの」
右手の人差し指をウィグナーの友人に見立てる。
「部屋にウィグナーさんの友人が入る。部屋にはさっき話したシュレーディンガーの猫実験を行っている箱があるとする。ウィグナーさんはその間、別の部屋で待機している。ウィグナーさんは友人にこう言うんだ。『一時間後この箱を開けて生死を確認し、結果を私に伝えてほしい』って」
響子は頷く。
「ウィグナーさんの友人は言われた通り、一時間経過した箱を開ける。シュレーディンガーの猫が生きているか否か、
「それは……ウィグナーさんの友人が箱を開けてみたタイミングじゃないかしら」
「そうかな。実験してるのはウィグナーさんだよ?」
響子は首を傾げた。正解がないのに正解が欲しい問題だ。
「俺がなんでこの話をしたのかっていうのは、実はあんまり理由が無かったりする」
「へ?」
響子は口を半開きにして間抜けな声を上げた。真面目に考えていた自分が急に馬鹿に思えてくる。
「ただちょっと言いたいのは、
「観測?」
「小森さんの持つ箱の中には詩乃ちゃんが入ってる」
響子は小さな声で自身の妹の名前を繰り返した。
「箱を開けないと小森さんは詩乃ちゃんを観測できない。まだ開けてない今、小森さんの中の詩乃ちゃんは『いる』と『いない』にわかれてるんだよ」
「……」
響子は夕日に目を戻した。
フランベしよう。
嫌なもの全部。
三年前に読んだ手紙を思い出す。あれを読んで響子は
「無意識に自分を守っていた箱。今は開けてみてもいいと思うけどな」
詩乃を恨み、響子は少女を箱の中に閉じ込めた。いるのかいないのかわからない状況にして意識から消した。
でも今は、一人になりたくない寂しさを解消する種は一つしかないのだ。
郁人は胸ポケットから
「返しておくよ」
響子にその差出人の名前が見えるように手渡した。響子はおぼつかない手つきで封を開き、手紙を取り出す。その歌詞を見た響子は俯いて紙をくしゃりと握り締めた。
郁人は借りた自転車のロックを外す。静かに
「
響子はハッとして顔を上げた。手紙を握り締めたまま、うるんだ目で郁人を見あげている。
「じゃあ、また明日」
郁人はペダルを踏み込んだ。
視界の端にとらえた響子は夕日に向かって手を伸ばしていたような気がした。
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