55 エモンデ(4)

五月二十日 月曜日


「あーだちくん」


 廊下で呼び止められるのは多くない。しかも慣れない声だというのはなおさら。

 郁人は声の主に答える代わりに振り向いた。


「やっほ。ひさしぶり」


 響子のクラスメイト。名前はもちろんのごとくおぼえていない。片手をひらひらと振っている。

 郁人が黙っていると、彼女は手を後ろに回して前傾ぜんけい姿勢しせいになった。ちょうど上目うわめづかいで見上げてくる。


「もう、なんて呼ぼうか迷ってるんでしょ。わたし、酒田さかた由良ゆら。『由良ちゃん』とか、『由良』でもいいよ。わたしの希望は『由良ちゃん』呼びかなぁ」

「酒田さん、何か用だった?」


 郁人が依然いぜんとして名字で呼ぶと、由良は目に見えて目の色を暗くした。


「用なんてないよ。ただちょっと声をかけてみただけ。あー……、でも一つ聞きたいことがあるかな」

「どうぞ」

「安達くん、今日はすぐ帰っちゃうんだね」

「用事があるし」

「響子を置いて?」

「なんで小森さんの名前が出てくるの? 関係ないよね」

「用事があるのに?」


 由良のうまくかみ合わない会話に郁人は首をかしげた。用事に響子は関係ない。響子と帰路きろを共にした記憶もない。


「響子と安達くん、仲いいじゃん。たかだか生徒会だけの付き合いにしては……ちょーっと仲良すぎるかなって」

「えっと。俺、酒田さんが何を言いたいのかわからないんだけど」


 これでは会話のキャッチボールではなく、バッティングセンターにいる気分だ。投げたボールが返ってこない。


「それに安達くん、最近すごくなんか魅力的? っていうか。にこにこしてるし」


 郁人は反射的に自分のほおに手を添えた。あまり接触のない人間にまでバレているのは恥ずかしい。

 由良は郁人の動作を見てきゃっきゃと笑っていた。


「ねえ、可愛い。やっぱり最近ちょっとお茶目ちゃめだよ?」

「全然うれしくない」

「それに、響子もちょっと挙動きょどう不審ふしんだし」


 体を揺らしながら足元を見つめている。急に表情のなくなった声色に郁人は違和感いわかんを覚えた。


「あ、大丈夫。無粋ぶすいなことはしないつもりだから。わたし、響子の親友だし」

「え、もしかして」


 聞く耳持たないのかそんな制止も届いていないようで、由良は首を振って郁人をさえぎるようににっこりと笑った。


「用事あるって言ってたのに引き留めてごめんね。じゃあね!」


 由良はそれだけを言うと背中を向けて走り去っていく。

 郁人は彼女が不用意にその憶測を人に言ってしまわないのを願って、ひとまず次の用事へと意識を向けた。




 羽鳥学園は、交通の便がいい市内の駅から少し歩いたところにある。三島と待ち合わせていた時間までは、三十分ほど余裕があった。

 郁人は普段出向かない大型書店に足を踏み入れて本棚の森をながめた。


 特別に設営された雑貨コーナーなどには、よく分からないストラップのようなものがぎっしりと並べ置かれている。不意に生徒会室の鍵につけるためのかざりの必要性を思い出して、何をモチーフにしているのかわからないマスコットに近づいた。


「兄さん?」


 猫耳のような突起とっきの生えた舌を出す縦に細長いマスコットに顔を近づけたくらいに、聞き覚えのある声に呼び止められた。当たり前だが兄さん、と郁人を呼ぶのはこの世で一人しかいない。


颯人はやと

「偶然。こんなとこにいるなんて」


 黒いリュックを背負った郁人の弟は、書店の名称が入った袋を手に持っていた。学校から家に帰るのにここは通らない、と考えたところで月曜日は市内の塾に通う日だということを思い出した。


「颯人は塾に向かう途中?」

「そ。時間あったから本屋寄ってから行こうと思ってさ」


 颯人が袋を掲げると、がさがさとビニールが音を立てる。

 郁人は颯人の全身を眺めて、念のために尋ねておくことにした。


「颯人は、大丈夫?」

「ぜーんぜん無事。健康体。俺、優秀だからさ」


 にやりと笑う颯人を見て郁人は安堵あんどの息を吐いた。何もないならいい。そのまま平和に暮らしてくれれば。

 颯人はその会話で思い出したことがあったのか、拳を手のひらで打った。


「兄さんにまだ渡せてないものがあったんだよ」

「渡せてないもの?」

「うん」


 颯人はリュックを胸の前に担ぎ直すとチャックを開いた。会った時に返せるように持ち歩いてくれていたのだろうか。

 そう思っていると、予想外の大きさのものが飛び出してくる。


「……お、重くなかったの?」

「いや~、重かったね。かなり」


 郁人が半分インテリアとして使っていたものだ。

 真鍮しんちゅう製のチェスセット。ボードは温かみのある木製だが、ピースはすべて真鍮でできている。それなりにお値段の張る品物だ。もちろん銅と亜鉛を含む金属製なのでスムーズにゲームできる重さではない。


「わざわざ持ち歩いてくれてたんだ。ありがとう」

「返さないとってずっと思ってたし。でも、兄さんとは連絡手段ないし、叔父さんは北海道行っちゃっただろ? 鍋島さんに連絡するって方法もあったけどさ、チェス程度でっていうのもあったから」


 厚みのあるフェルト生地の袋に入ったチェスセットを、郁人は丁寧に受け取る。


「母さんが売っちゃいそうだったから、っていう理由もある」


 颯人はにかっと明るく笑うと郁人に軽く背を向けた。


「んじゃ、俺塾行ってくる」

「うん。いってらっしゃい」


 あの家は郁人がいなくても回っている。颯人が普通に過ごせているのなら本望だった。

 郁人は腕の中の重みをしばらく抱きしめていた。

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