54 エモンデ(3)

 小森宅からしばらく歩いたところで、やっと三島は口を開いた。


「詩乃ちゃんが心配ですね」

「お母さん、かなり精神的に参ってそうですし」

「そうですねぇ」


 混沌こんとんとしたリビングに、三島は郁人と同じ意見をいだいていた。

 手の中にある詩乃から渡された一冊をかざして意味もなくページをめくってみた。見覚えのある文頭に目を通して、そこからはパラパラと流し読んでみる。

 その中にページに指が引っかかる感触があった。

 挟まっているのはしおりではなく、何やら白い便箋びんせん

 本をわきに挟んで便箋を手にすると、その差出人の名前は『花房さくら』とある。


「なんで花房さくらの名前がこんなところに?」


 三島は少し離れた先にまで進んでいて、郁人は慌てて封筒ふうとうをジャケットの内ポケットにしまう。駆け寄ろうと大きく足を踏み出したタイミングで、つんつん、と郁人は腰辺こしあたりを突かれて振り返った。

 そこには白い靴をいた詩乃が立っていた。

 詩乃は自分の子ども用携帯を見せると、電話番号をこちらに向ける。


「あの、お姉ちゃん、生きてますよね」


 郁人は絶句ぜっくして声が出なかった。三島も詩乃の声に気づいたのか振り向いた姿勢で目を丸くしている。


「あの日、お兄さんにあった日、うたの……『風稜ふうりょう高校』に向かってたんです」

「風稜に?」

「この前学校から帰るとき、きょうちゃんみたいな人がいて、何人かお友だちといっしょにいました。ママに、あれはどこの学校なのって聞いたら『風稜高校だよ』って」


 詩乃は子ども用携帯を郁人に押し付ける。


「うたの、ちゃんと見たんです。かみの毛まきまきしてたけどお姉ちゃんだって。だって、うたの、お姉ちゃんがほんとうに死んじゃったかなんて知らないし……」


 詩乃は語尾を弱めてしゅんとうつむいていった。


「パパもママも響お姉ちゃんは天国に行っちゃったんだよってずっと言うの。でもうたのはお姉ちゃんがかんおけに入ってるの見たことないの。お兄さんのそのせいふく『風稜高校』のでしょ? お姉ちゃん、いるよね?」


 必死になってその小さな体で訴えようとしている。きっと両親には聞く耳を持ってもらえず、何ならば怒られさえしただろう。バカなことを言うなと。

 三島は息を上げた詩乃の手をぎゅっと包み込んだ。


「詩乃ちゃん」

「……はい」

「響子さんはいます」

「ほんとに?」

「詩乃ちゃんがいるって言ったんですよ」


 三島は詩乃の目の前にしゃがむ。視線の高さが自然と合い、詩乃の視線が自然と下がって息が整っていく。


「でもね、詩乃ちゃんのお父さんもお母さんも、もう響子さんがこの世にはいないって思ってるんです。だから見えない。詩乃ちゃんは生きてるって信じてるんんですよね。だったらいます」


 詩乃は黙って三島の言葉を聞いていた。


「響子さんに会ってみますか?」

「……」


 詩乃は威勢いせいのよさを失って沈黙に落ちる。


「実はね、このお兄さんは詩乃ちゃんの言う通り、響子さんの同級生なんですよ」

「……ほんとう?」

「会ってみますか?」


 詩乃はき消えそうな声で「会う」とだけ言った。三島は詩乃の決断を肯定こうていするかのように頷く。


「それじゃあ、出かけて良さそうな日を聞いて来てください。ちゃんとお母さんに言うんですよ。『三島さんに話を聞きたいって言われたから、いつがいいと思う?』って。しばらくしたらまた電話しますから」


 三島は子ども用携帯の電話番号を見下ろす。


「わかりました」


 詩乃はぱたぱたと二人に背を向けて走り出す。

 郁人は詩乃の懸命けんめいな背中を見送りながら口を開いた。


「まさか、詩乃ちゃんには小森さんが見えていた、とは思いませんでした」

「本当かはわかりませんけどねぇ。でも本当なら納得がいきます。……おそらく、響子さんは構ってほしかったんじゃないですか?」


 パーキングエリアへと歩き出す。


「それによって自身の死体を生み出してしまった。それを見た人たちは響子さんが亡くなったと思う。世界のつじつま合わせに、響子さんはそれらの人たちから見えなくなった」

「世界のつじつま合わせ」


 郁人はため息を吐くように言葉を繰り返した。この言葉はあまりいいことにはならない。


「唯一、詩乃ちゃんだけが響子さんが生きていると信じていた。幼さゆえか、知りませんが皮肉ひにくな話です」

「当時詩乃ちゃんにつきっきりだった両親から見て欲しかった小森さんは、肝心の両親たちから認知されなくなって、反対にうらめしく思う詩乃ちゃんからは見えている」


 これらが本当なら、救われない話だ。


「先日、白波さんとお話ししたんです」


 三島は響子さんの担当の、と付け足す。響子が姉のようにしたっている大場の同僚どうりょう


「あの人、婚活始めたんですって。早くないですか? いくら『保安局』が出会いないからって」

「……なんの話ですか?」


 三島はつまり、と人差し指を立ててみせる。

 パーキングエリアに不釣ふつり合いな高級車が見えてきた。


「響子さんにとって白波さんは、ある種の依存相手でしょう。そんな人が婚活を始める。もちろん覚悟していなかったわけないでしょうけど、響子さんには心の負担ですね。唯一の姉のような存在が別の人の所に行ってしまうかもしれない、そういう寂しさ、不安です」


 三島は静かに車に乗り込むとエンジンをかけた。会話の静けさにはちょうどいいくらいのエンジン音だ。

 響子が女子高校生に擬態するのは、ただ自分が生きやすくするための術だと言っていた。しかし最近の学校での化粧や、気合の入ったヘアメイクは依存先を変えようとしていたからだろうか。

 一定の距離感で接していたい、白波に甘えていたいという感情と、依存先を縛ってはいけないといういましめがせめぎあっていたのだろう。


「それに三年来の友人である佐倉さんも最近は受験勉強で大変そうですし……それから安達さんも」


 三島は目線だけをちら、と寄こす。

 郁人は少しだけ気まずくなって景色に目を逸らした。


「響子さんはここ最近急速に孤独こどくを感じていたでしょうね」


 もちろん、誰のせいではありません。三島は郁人の心中をさっして付け足す。

 響子が響子自身に追いつめられている。


「三島さんが詩乃ちゃんに小森さんに会うことを提案したのはそういうことですか?」

「ええ。響子さんにはきっといなくてはいけないんです。会話が無くても寂しさを感じないくらい何かたしかなつながりのある人間が」


 それから、と三島は言葉を続けるようだった。


「あの小説」


 詩乃から押し付けられた一冊の本。


 『向日葵の咲かない夏』。


 後味の悪さが特徴的なミステリー作品だ。主人公の街では猟奇りょうき的に殺害された動物の遺骸が発見される。

 響子の不安定な感情と、その本によるトラウマか大きな感情が交錯こうさくして一連の事件が起きている。そうひもづけるのは簡単な話だった。


「あとは響子さんが詩乃ちゃんに出会って、三年前のように落ち着けばいいんですけどねぇ」


 三年前事件がおさまったのは響子が『保安局』の人間に出会ったから。監視という言葉は響子にとって一定の安心を与えるものだった。


 車が止まったのは鍋島宅だった。郁人は三島の顔を見る。

 あれ、違いました? と言った風に目配せをしてくる三島を見て閉口した。


「……いえ、ありがとうございます。助かりました」

「いえいえ」


 郁人はシートベルトを外すと革のシートから降りた。鍋島宅の玄関口に立って車を見送る。

 しかし車は発車しなかった。代わりに下がっていたサイドウィンドウから三島が顔をのぞかせる。


「それで安達さん、ちょっと最後にいいですか?」


 三島が窓から少しだけ身を乗り出して小声で言う。


「安達さんがその人をどうとも思っていないくても、逆の可能性は常にありますから。気を付けてくださいね」


 コミカルにウィンクをり出すでもなく、それだけを言うとサイドウィンドウが上がっていく。

 郁人は三島の神妙な表情に気を留めながら、インターホンを鳴らした。

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