52 エモンデ(1)

五月十八日 土曜日


 『保安局』のロビー。特に待合のソファに腰掛けるでもなく立ったまま動かない郁人を、受付の警備員がちらちらと様子をうかがっている。しかし今日は『保安局』に用があるわけではないのだ。


「あ。お待たせしましたぁ」


 ぱたぱたと小走りで駆け寄ってくる三島はいつものハイネックではなく、立襟たちえりの白いブラウスに変わっていた。そっちの方が妙な雰囲気が無くていいと思ったが、口に出すことはない。

 郁人はさりげなく彼女の首に目をやってから、無為むいに頷いた。


「どうです、職員証です。役所の人間っぽいでしょう。いつもは引き出しの中でおやすみしてるんですけど、これで信用度を上げる作戦です」

「変なことはあんまりしない方がいいと思いますけど」

「ちゃんとした心理戦への万全な準備です」


 三島はひもからぶら下がる公式に発行されたそれを見せびらかす。


 これから郁人と三島は小森宅へ向かう。


「車出すので、裏にまわりましょう」

「ありがとうございます」


『保安局』の建物に隣接りんせつするようにある立体駐車場から三島が黒の車を出庫しゅっこした。誰もが知っている円を三等分したようなマークはそれが高級車だと示している。

 助手席に乗り込んだ郁人はシートベルトを締めて、かばんを膝の上に乗せた。足元に置いていると鞄のせいで車内が傷つきそうだと思ったからだ。


「これは『保安局』の持ち物ですか?」

「いえ、これは大場さんの車です。最近構かまってないと聞いたので乗ってあげようと思って借りてきました」


 おそらく大場は良い顔しなかっただろう。それがありありと分かるほど三島はご機嫌にハンドルを回していた。運転自体は慣れているのか三島は少し車内を見回しながらも、危なげなくアクセルを踏む。車にしたのは他でもない、道中に会話をするためだろう。

 事実、教えてもらった住所を見る限り電車で向かった方が早くて便利だ。

 三島はハンドルを左に切りながら口を開いた。


「実は響子さんに持たせているGPSから、彼女が数分以内に通るであろう地点に死骸しがいが発生していると分かりました」


 GPSは響子が持つ携帯に取り付けられている機能のことだろう。

 郁人は信じたくない事実から、思わず眉間に寄った皺に手を伸ばす。なんだか最近表情に気遣うようなことが多い気がする。


「三年前葬儀そうぎが行われた響子さんの死体は、やはり彼女自身が作り出したものでしょうね」

「火葬して、何も残らなかったからですか?」


 三島は赤信号にブレーキを掛けながら、ちらりと視線を寄こした。


「どうしてそう思ったんです?」

「佐倉が過去に小森さんと交わした会話を教えてくれました。小森響子は三年前自身の葬式に出るまで、火葬を知らなかった」

「……」

「ずっと棺桶ごと埋められるものだと思っていたようです」


 三島はあからさまにきょとんと瞬きして見せる。郁人はその反応に言葉を続けた。


「俺の推測、話していいですか?」

「ええ、どうぞ」


 三島は少しだけ戸惑った様子を見せながらアクセルを踏み直す。


「少し信じがたい話ですが、多分当時の小森さんは火葬を知らなかった。それはつまり小森さんの脳内によって生み出された遺骸たちや本人の死体も、火葬で焼かれて少しの骨と灰が残る、という概念が含まれていない可能性が高い、ということです。おそらくそういうものが想定外に直面した時、想定の範囲内だけ反応して、範囲外に陥ると存在が崩れるんじゃないでしょうか」


 運転を続ける三島の横顔を覗き見ると、三島の眉がかすかに動いていた。何を考えているのかはわからないが、相変わらず口元はうっすらとえがいていた。


「遺骸が火葬されたとき、想定の範囲内に当てはまるのは『焼かれたものは灰になる』ということです。そして範囲外に当たるのは『脊椎せきつい動物が焼かれるとき大きな骨は残りがちだ』ということだったのではないかと。しかも小森さんはおそらく灰という存在すら、いまいちピンと来ていなかったんじゃないでしょうか」

「……なるほど。では『保安局』のカルテの草稿そうこうにそれを残しておいてください」

「もう、残してあります」


 郁人が答えると三島は薄く感嘆かんたんの息を漏らした。

 信号に引っ掛かったタイミングで。三島はサイドブレーキをかけ後部座席に乗せていたビジネスバッグを引き寄せる。中から取り出されたのは書類がまとめられたクリアファイルだった。


「小森咲代さん……響子さんのお母さんは精神不安定で、心療内科とカウンセリングに通っていらっしゃいます」

「精神不安定、というと」

「軽度ですが、うつ病、統合失調症とうごうしっちょうしょう、PTSDの傾向けいこうがみられるとカルテにはありました」


 小森咲代が通う精神科のカルテのことだろう。彼女にはそれを見る権限があるということだ。


「そうそう、聞きたかったんです。安達さん、最近表情が増えましたねぇ」


 突如変わった話題と発言に郁人は目を丸くした。


「……そうですか?」

解離かいりせい健忘けんぼうしょうが治まったのと、環境が変わったからでしょうか」


 郁人は三島の言葉に驚きを隠すように、サイドウィンドウに目を向ける。

 確かに、知らない自分がある、という不快感は消えた。感受性かんじゅせいの薄さも、感情育成に重要な思春期の記憶が消えていたから、と思えばしっくりくる。家庭環境だけではなくて。

 前より生きやすくなった。


「念のため、小森こもり咲代さきよさんへの対応のマニュアルです。読んでおいてください」


 片手でドリンクホルダーにさった携帯を指さされる。郁人は社員用、と書かれた携帯に手を伸ばした。

 うつ病、統合失調症、PTSD。

 同時に幾つかの精神病を診断されることは珍しくはない。

 ページをスワイプする。

 これらを見る限り、小森咲代は響子が亡くなったという事実に対してかなり気負っているのだろう。カウンセリングの一部の会話記録には度々響子の名前があった。しかし、そのことについて話そうとすると過呼吸かこきゅう錯乱さくらんなどの症状が出ている。ドリンクホルダーに携帯を戻しながら、あまり話に上がらない人物について言及した。


「小森さんのお父さんは……」

「今日はいません。小森咲代さんと詩乃ちゃんだけ。土曜日は出勤日だそうで」


 三島が車の速度を落とす。すぐそばのパーキングエリアに入ったのだ。すっかり慣れたように三島は駐車ちゅうしゃしてみせた。

 三島は助手席から降りようとする郁人をさえぎって、平べったい機械を差し出す。先ほどまで対応マニュアルを読んでいたそれだ。


「これ」

「……なんですか?」

「『保安局』から貸し出している連絡用のスマホです」

「GPS付きですか」

「もちろん。ですが、安達さんは今どき便利な連絡手段を持っていないと聞いたので」


 身体に押し付けられてしぶしぶ受け取ると三島は満足そうに笑った。


「いつでも私に連絡出来ますねぇ。事件ホイホイとの相性あいしょう抜群ばつぐん!」

「害虫みたいに言わないでください」


 郁人がシートベルトを外すと、三島もサンバイザーの鏡で髪を軽く整える。


「小森宅はこの中道を進んだ先です。それじゃあ、行きましょうか」


 郁人は決して傷つけてしまわないように隣の車に注意しながら降車した。

 雨の降りそうな湿り気のある風に気づいて、そっと雲に覆われた空を見上げた。

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