50 デゴルジェ(4)

──三年前


 クーラーが効いた『保安局』内でも外からの熱気を感じ、誰もが冬を恋しく思い始めた時期だ。そして白波しらなみ美月みつきが入社して、初めての夏だった。


「優、ちょっといいか」


 優はテキストから顔を上げる。まだ髪も黒くて短くて、ピアッサーの痛みも知らない時。

 大場の話しかけにぴたりとシャーペンを持つ手を止めた。耳からこぼれた髪をさっとかけ直して顔を上げる。


「なに? 勉強見てくれるとか?」

「勉強は見てやらなくてもわかるだろう。そうじゃない」


 大場は優から離れて白いドアを開けた。まるで転校生の紹介のように。


「白波が連れてきた新しい子がいる。中学二年生だ。仲良くしてやれ」


 そう言われてちらりと顔をのぞかせたのが小森響子だった。

 長い綺麗な黒髪は深窓しんそうのお嬢様、といった感じ。加えて夏服のセーラーに膝下丈のスカート。それに似合わず響子は素足すあしに白いサンダルを履いていた。外の熱帯雨林のような気候にそぐわない、すずし気な、どちらかと言えば寒そうな顔をして立っている。


 大場は部屋に響子を残してどこかへ行った。きっと仕事に戻ったのだろう。

 目の前に申し訳なさそうに立つ響子を見て、優は手っ取り早く目に入ったものから話題に挙げることにした。


「羽鳥学園の子?」


 優はその制服を知っていた。順当に人生を送ることができたなら、通うはずだったところのものだからだ。

 べつに羨ましいとも思わない。そうだったのだ、と客観的に感じるだけだ。


「私が見えるの?」

「見えるから話してるんだろ。何もないところに向かって話してるなら俺は異常者だよ」

「そ、それもそうね」


 優の質問の答えとしてはすれ違っている。それよりどういった意図の言葉かもよく分からない。何を言っているのだろうと優は思わず眉根を寄せた。かわりに響子は少しだけ目を丸くする。けれど諦めたように目線を落とした。


「お父さんもお母さんも私が見えてないの。お葬式そうしきだって行ったのよ。みんな棺桶かんおけに向かって泣いてたわ。だーれも後ろに立ってる私に気づかないで、死をいたんでた」


 綺麗なひだのプリーツスカートをぎゅっと握り締める。響子は誰にも聞かせるつもりもないのか、ただれてしまったのか「本当に失礼な話」と小さく呟いた。


「私、死んだのかしら」

「死んでねーだろ」

「なんで?」

「こんな透けてない幽霊いてたまるか」


 響子は少しだけ唖然あぜんとして表情を崩すように笑った。少し安心したように見えた。

 隣の席に座るように促せば、響子はスカートを引いて上品に座り足を揃える。


「あのね。一つだけ、驚いたことがあったわ」

「なに?」

「人のお葬式って焼くのね」

「日本じゃ、一般的には火葬だろうな」

「みんなびっくりしてた。納骨する骨がないって。私栄養失調だったのかしら。お魚さんは人並みに食べてたつもりだけど」


 こう、と響子はスコップを使うようなそぶりをする。


「こうやって土に埋めるんだと思ってたわ」


 黒い棺桶でない時点で気づくべきだった。

 響子はやっぱり小さく呟いた。

 ただただ優から見て、響子が自身の葬式について淡々と語るのに、他人ひとごとのように考えているのだと思った。薄いフィルター越しに映像を見た感想は客観的だ。

 手に一つの鍵を持った白波が姿を現す。響子はそそくさと立ち上がって、白波に駆け寄った。随分となついている。

 その鍵の形は特殊で、『保安局』上階の住居施設のものだと分かる。あのホテルのような一室のどこかに響子は住むことになるのだろうか。


「お部屋に案内するから、着いて来てくれる? 佐倉さん、どうもありがとう。響子ちゃんとこれからも仲良くしてあげてください」


 白波は礼儀正しく腰を折ると響子を連れて廊下に出て行った。

 妙に板についている。入って来たばかりの白波と、やっと見える人に出会った響子。まるで姉妹だ。あの二人だけの空間が出来つつあるように感じた。

 響子がカルガモの子供のように見えたのは勘違いじゃなかったらしい。




 ひたいに手をえて、うっすらと目を開く。

 優の話を思い出すうちに、リビングでうたた寝をしてしまっていたようだ。机の上に広げられたテキストとノートは数行しか埋まっていない。

 郁人はそこに転がるシャーペンを手に取ろうとするが、そのまま重力に従って床に落下した。頬杖をついて眠っていたせいで手がしびれていたのだ。


「おつかれさま」


 シャーペンを拾い上げたのは他でもない、叔父おじだった。


「今帰ったの?」


 普段よりも一時間と少しほど帰宅時間が遅い。


「そうなんだよ。実は、急遽きゅうきょここをつことになって」


 叔父は父親と年も離れていてまだ四十手前。独身でい人もいない。強いて言うならここずっと仕事が恋人だという叔父は異動いどうが多かった。大学の研究機関で働いているというが、昔から各地で手を組んだり研究を手伝ったりと言った理由であらゆる場所を転々としていた。

 少しだけ恐れていたことだ。郁人は眉を下げて不満を示してみる。


「ごめんなぁ。明日から北海道」


 叔父はいたって慣れた手つきで大型のスーツケースを引っ張り出し、荷物を詰め始める。


「三か月は離れる羽目はめになりそうでさ。鍵は郁人が持ってる分で大丈夫だろうし、家賃やちん諸々もろもろ代金もこっちで払っておくから一人で何とかやってくれよ」


 叔父が新しく借りてくれたマンションは、叔父の立派な職種のおかげか乾燥機付き洗濯機もあれば利口な全自動お掃除ロボットもいるので、住むのには全く困らない。


「郁人の口座の方にも定期的にお金入れておくから、それでやりくりしてくれ」


 問題は郁人の生活能力だ。

 くのまだファーストステップしか踏めていない郁人はどうやって食べていこう。それ以外の家事であれば要領は得ているのだが。これでは七月六日のみならず、毎日がサラダ記念日になってしまいそうだ。


「ご飯に困ったら家事代行サービスでも頼んでくれたらいいから。言ってくれたら多めに入れておくし」


 その手があった。


「いろいろ、助かります」


 郁人は深々と頭を下げるが、それでもすっきり解決した気分ではなかった。


「俺も何とかするって言ったわりにすぐ放棄ほうきで申し訳ないんだけど、来年にはちゃんとしてやれるように交渉してるから。受験期に郁人の心労しんろうを増やすわけにはいかないしな」


 叔父はにかっとと笑ってみせる。

 考えた末、今は少し我慢してほしいということだ。郁人も甘えてばかりではいけない。抱えるものは少ないとはいえ叔父の人生にお邪魔しているのだ。


「仕事、がんばって」

「おう。時間遅くなったけど、荷物詰め終わったらご飯作るから待ってくれるか?」


 三か月、乗り切ればいい。きっと叔父が帰ってくるころには、それなりに生きていけるようになっているはずだ。

 郁人は不安のにじんだ表情を浮かべたまま頷いた。

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