39 結言

五月二日 木曜日


 保健室に連れて行くと言ったのに。

 ため息がこぼれそうになる。

 朝は練習に行くために先に登校した征彰だが、木曜日は昼練が休みなのだ。ちゃんと生徒会室なり教室にいるようにお願いすると郁人は曖昧な返事をしていた。

 昼休みは探すのに時間が足らず断念していたが放課後はある程度時間に余裕がある。そして今、残念ながら二十分ほど校内中を駆けずり回って探しているところだ。

 郁人は逃げた。保健室に連れて行き、怪我の重大さがバレたとすれば病院に連れて行かされるとやはり気づいていた。もちろん征彰が気づいたことなので郁人が分からないはずがない。

 教室の郁人のクラスメイトには「生徒会室じゃね?」と言われ、生徒会室に行けば生徒会書記の先輩に「教室にいるか欠席だと思ってたわ」と言われ散々だ。小森響子だと名乗ったその人は飄々としていた。


「どうしてまた保健室なの」


 うっかり響子に口を滑らせてしまった征彰だが、他人に言わないように響子にはくぎを刺しておく。響子は片眉を上げて「大変そうね」とだけ言った。


「なんで何とも思わないんですか」

「安達くんの両親が毒親だってことぐらい知ってるわよ」

「でも」


 響子は長机に肘を付く。


「帰る場所があるのはいいことだわ。安達くんは幸運ね」

「幸運?」

「ええ。だって、もう一度同じことをすればきっと、ぜーんぶ忘れて幸せな世界に戻れるでしょうし」


 幸せな世界に戻る。

 郁人が幸せになれるならそれでいいが──大場先生の『保安局』の意向には背いてしまうが──本当に帰ることが幸せになるのだろうか。また思い出して苦しまないか。

 そもそも帰ることができるのか。


「そういえば『まじかる☆ばなな』の最終話、見た?」

「……いえ、最終話はまだ」


 響子もまた『保安局』の関係者なのだろうか、征彰は察しのいい話の流れに戸惑いながら返事をする。


「へえ。まあ、今から見ても遅いでしょうから結末を教えてあげるわ」

「猫を助けてハッピーエンドですか?」


 響子は外へと目を向けた。長い髪が彼女の表情の半分を隠す。


「猫を助けて、までは正解。模範解答は『小田真昼が屋上から落ちそうになっている飼い猫を助けようとし奇跡的に猫の命は救われるものの、代わりに真昼がビルから落ちる。そして真昼は小指に巻き付けられた青い糸のおかげで別の並行世界にまたやってくるんだけど、そこで小田真昼は再び同じことを繰り返し始める』。……こんな風に、なかなか救われない延々ループものなのよね。だって特に主人公には手を差し伸べる人間が誰もいなかったでしょう?」


 響子はさらりとそんなことを言った。

 違うのは手を差し伸べる人間の有無。作品中の彼女のようにさせてしまうわけにはいかない。


「でも、手を差し伸べられるのは私じゃないわ」


 淡々と言うが、響子の目には確かな悔しさが宿っている。


「どれだけ手を伸ばしても跳ね除けられる、押し返される、手を引いても振り切られる。私たちはとても無力だった。……実は鍋島くんが初めてなのよ。安達くんが素直に縋ったのは、鍋島くんの助け舟が初めて」

「そうなんですか」

「そうよ。正直言って貴方がいない中でこのような状況に陥ったとしたら、『保安局』は彼を拘束するまで考えていたの。だって彼は今のところどんな高性能コンピュータよりも価値のある力があるから」


 響子は首を傾げて見せた。


「助けてくれるかしら。一人で走ろうとするあの人を」


 自分しか、いないのだ。

 機密事項を手渡してくれるほど、自分に掛かっている。その意図や目的が『保安局』と征彰と食い違っていても、これだけは変わらない。郁人を救えるのは征彰一人だけ。


「……。はい」

「じゃあきっと、二号館の屋上にいるわ。私たちを捕えて放さない、鍵島が一望できるあそこに」


 征彰はポケットに入ったままの昨日のロリポップキャンディーを思い出した。信頼の証、裏切るわけにはいかない。

 響子に躊躇いもなく背を向けて走り出す。二号館の屋上に。ここからだと少し遠い。校舎間の移動には時間がかかるのだ。

 それでも、上を目指して駆けあがって、人通りのない屋上に続く階段の下までやって来た。息を切らしながらも屋上まで足取りは変わらない。

 重い金属の扉のノブを回しながら押す。金属が擦れるような音と吹き込む風に片目を閉じながら、ばたん、と扉を閉めた。

 金網に手をかけて、鍵島を見下ろしている。今にも消えようとしているみたいに影が薄い。

 征彰は大股になってその陰に近づいた。


「保健室の話、忘れたんですか」


 郁人は振り返らない。

 真顔で鍵島の街を見下ろすだけだ。


「俺は、そんなことをしても変わらないと思います」


 郁人の小指の絆創膏はない。代わりに青い糸が巻き付けられていて、きちんとほどけないように固結びにされている。余った糸の先が風になびいていた。


「最後にさ」

「最後なんて」

「最後に、『郁人くん』って呼んでよ」

「そんなの、これからいくらでも呼びますよ」


 郁人は口を引き結ぶ。

 金網にひっかける手に力が入った。


「最後だよ。迷惑をかけるのは、一人だけでいい」

「まだ一人ですよ」

「ちがう。もう二人だよ」


 郁人は喉のかすれた声でつづけた。


「人の本質は、きっと経験なんだよ。『超機密事項』読んだでしょ?」

「俺は違うと思います」

「……」

「人の本質は、存在、ですよね」


 郁人は少しだけ困ったように眉を下げた。代わりに緩く口角が持ち上がる。


「本当に重要なことは、日本語では一番最後に書くって、授業で習いました」


 人の本質は、見た目か、中身か、経験か、概念か、存在か。


「正直どれでもいいと思います。でも、あれを書いた人は安達先輩に心の点滴をするためにあの文を最後に付け加えたんだと思います」

「心の点滴、か」

「好きなことをする。それが心の点滴ですよね。自分のいいように解釈するのは『好きなこと』じゃないんですか?」

「……」

「正直、一人でも、二人でも、変わらないことです。もしここでその選択を取るなら、もっと自分を苦しめてしまうってだけです」


 郁人は金網に手のひらを打ち付けた。八つ当たりだ。

 がしゃん、と強い音が風に流れていく。


「じゃあ、じゃあ、どうしたらいいって言うんだよ! 俺は……俺は」


 減速するように声もかき消えていく。風に溶ける。


「じゃあ、罪滅ぼしは俺にしてください」


 征彰は郁人の手首を取って、強引に口元に寄せた。郁人は驚いて手を引こうとする。


「何して……」


 しかし征彰の方が早かった。

 ぱち、と繊維の切れる音がして、青い糸が床に落ちた。


「……」

「……」


 郁人は言葉を失って、目をあらんばかりに開いている。


「俺から逃げないでください。そばにいてください。俺を頼ってください。それが一番の罪滅ぼしですから」


 青い糸は征彰の歯によって噛み千切られた。

 征彰の両手に包まれた左手が震える。

 左手だけではない。全身から震えて、郁人は歯を食いしばった。


「……ずるい」

「ずるくないですよ」


 征彰は郁人の背中に手を回す。離せないようにしっかりと抱擁した。風にさらわれないように、鍵島の街に落ちて行かないように。

 肩が冷たいのは濡れているからだ。早まっていく鼓動を抱きとめる。


「そんなの、ご褒美になっちゃうじゃん」

「俺にとってもご褒美なのでちゃんと罪滅ぼしですよ」


 郁人は肩を震わせて、おもわず笑ってしまった。

 征彰の背中にまわった郁人の手に力が入る。鍵島に飛ぼうとする足の力が抜けた。

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