38 鶏鳴(6)
今日の校門にはセダンではなく、見慣れない学ランを来た少年が立っていた。制服に見覚えがあるのは、過去郁人が来ていた中学校の制服と同じだったからだ。
彼は好青年らしくきっちりと襟を締めていて、校則通りに着こなしているのだろう。
「あの」
その少年は素通りしようとする征彰を呼び止めた。
細い首にちょこんと乗った丸い頭と痩躯には重なる人影がある。彼は大きなボストンバッグを抱えていた。
「鍋島さん、ですよね」
「はい。鍋島です」
「安達郁人の弟です。颯人と言います」
申し訳なさそうに颯人は征彰に頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしています。兄が昼に俺の携帯に電話をかけてきて、荷物を持ってきて欲しいと言われたんです。それから『鍋島って人に渡してほしい』って。兄は鍋島さんの家にいると聞きました。電話はおそらく貴方の家の方から」
どうやら郁人は征彰の家に備え付けてある固定電話から弟にヘルプを出したようだった。郁人が庇いたがっている医師志望の弟。
「それがその荷物?」
「はい。お手数おかけします。すいません、俺にはこれくらいしかできなくて。兄にはまだ言わないで貰いたいんですけど、一応叔父に事の顛末を説明している途中でして」
「叔父さん?」
「父の弟にあたります」
颯人は少し堅苦しそうな敬語で話す。先輩の弟なのだからそんなに気を張らないで欲しいが、今はその話題ではない。
「叔父は仕事場の異動が激しい人で……、学生を一人養うのは責任に欠けると言っていたのですが、今回ばかりはさすがに引き離すのが最優先だと納得してくれて」
つまりしばらく叔父が郁人を預かる、そんな話をしているのだ。
「……その方信頼出来る人、なんですよね?」
偏見は良くないかもしれないが、父親の兄弟だというのは少し不安があった。
しかし颯人ははっきりと首を縦に振る。
「はい。半年前に一か月ほど、兄が叔父の家に滞在していた時があったので」
「そう、ですか」
颯人は携帯を取り出すと、十一桁の数字が書かれた画面を見せてくる。颯人の電話番号だ。
「念のため、番号を教えていただいてもいいですか」
征彰は同じように携帯番号の入力画面を開くと、その番号を安達颯人の名前で登録する。征彰が登録したばかりの電話番号に電話を掛けると、颯人は目の前で電話帳に登録した。
「不甲斐ない弟で申し訳ありません。しばらく鍋島さんのご厚意に甘えてもいいですか? 今、兄が家に戻ればきっと良くないので。暴力を止める術が……俺にはありません」
「それはいいですけど、颯人くんは親御さんから何もされてないんですか?」
見たところ外傷はなさそうだ。ケロッとしているし、それなりに自由行動していたりスマホを所持しているところを見ると何もなさそうではあるが。
「俺は全く大丈夫です。そもそも兄は昔から父親と折り合いが悪かったので。あと、これは兄には言わないで貰いたいんですけど、兄のスマホは水没させられていました」
「水没」
「念入りに湯船に浸けられていました。あのスマホはもう使えないと思います。いつか言わなければいけないとは思うんですけど、今は精神的にもよくないかと」
颯人はこれから塾なのだそうだ。荷物をここで明け渡してしまって、丁寧に頭を下げていた。
征彰は見た目よりも軽いそれを肩に担ぐ。おそらく日用品やらがそろっているのだろう。
「兄の事、よろしくお願いします」
迫る塾の時間に小走りになって鍵島駅へと向かう颯人の背中を見届けて、征彰は申し訳なく思いつつも預かった荷物のチャックを無断で開いた。
家に帰ると郁人はソファーに体育座りをして、うとうととしていた。テレビの画面はついていて、夕方のワイドショーを映している。
クッションを抱え込んでどこか腹をいたわるような姿勢に勘付く。
征彰はそっと音を立てないように郁人の正面に回り込んで、そのシャツを捲り上げようとした。しかしその手は郁人の手によって阻害されてしまった。
郁人は目を覚ましていて、寝ぼけ眼で征彰を見下ろしていた。
「……おかえり」
「違います」
責められているわけでもないのに、思わず言い訳が口をつく。
郁人は目を擦ると少しだけ持ち上がったTシャツを整える。そしてそのまま喉が渇いたのか立ち上がってキッチンへと向かった。
郁人の仕草はかなり自然で、なにも痛いところがあるようなそぶりは見せない。
「今日、佐倉先輩と話してきました。颯人くんを庇ってるって」
郁人の足がぴたりと止まる。顔をこちらに向けるが何も言わなかった。
「颯人くんの受験に影響が出ないように、一人で我慢してるんですよね。家が病院だから薬には困らないからって理由をつけて」
「そうだよ」
「だめです。病院には行ってください」
郁人は黙って征彰の横を通り過ぎていく。そしてそのまま征彰が預かってきたボストンバックのチャックを開く。
「怪我なんて日が経てば治るんだよ。ほら、あった」
郁人が手にしているのは湿布のパック。五枚入り、と書かれている。他にも傷用の塗り薬や様々なサイズの絆創膏を取り出して見せた。
征彰は首を振る。わかっているくせに浅はかな振りをしている、あるいはそう信じたいのか。
「でも場所によっては内臓とか骨とか、怪我してるかもしれないんですよ?」
「鎮痛剤もあるよ」
「安達先輩」
征彰は平気そうに言う郁人に強い口調でとがめた。
「少なくとも家にいる間は俺の言うことを聞いてください。病院に行く、それの何がそんなに嫌なんですか?」
「さっき、鍋島くんが自分で言ったよね。『颯人を庇ってる』って。医者だったらどうやってできた怪我かなんてわかっちゃうものだよ。病院に行ったら終わり。俺がずっと何のために我慢してきたのかも、意味がなくなる」
郁人は後ずさる。
出来るだけ追い詰め過ぎないように、征彰は距離を縮めた。
「じゃあせめて、手当しきれてない怪我が無いかだけでも教えてください」
「いやだ」
「それって、怪我が見えるところだけじゃないかもしれない、ってわかってるからですよね」
「だからいやだって」
「お願いです」
征彰の声色に郁人は逃げるのをやめた。
「お願いですから。せめて明日、学校の保健室には行きましょう」
郁人は素直に首を縦に振らない。
「長らく怪我に苦しんでいるのを黙って見てられないんです」
俺のために、と付け加えて言う。
郁人はこの言葉に弱いと思ったからだ。征彰のために逃げてくれた郁人なら、征彰のために保健室にも行ってくれるだろう。
征彰の強情さに郁人は根負けした。首をうなだれるようにして、しぶしぶ頷いた。
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