37 鶏鳴(5)

 やはり家にいた方が良かっただろうか。

 それとも今からでも早退しようか。

 征彰は何も書かれていない黒板を睨みつける。授業も終わり、日直当番が征彰の視線におどおどしながらも文字を綺麗きれいに消したというのに。

 そんな様子のおかしさには誰もが気づいていた。そして瑛史郎えいしろうが気づかないはずがない。


「なんや、怖い顔して」


 友人を気遣きづかう一言で征彰はようやっと現実に帰ってきたように、きょとんとして顔を上げた。


「目ぇ開けて寝てたんか」

「いや、考え事」

「はー珍しい。そんな分からん問題でもあった?」


 四時間目は数学だった。しかしノートは真っ白でテキストにいたっては開いてもいなかった。

 瑛史郎は征彰の机の上を見て「うん。ちゃうみたいやな」と自己完結する。


「やったらなんなんや、最近情緒じょうちょ不安定やで」

「自覚してる」


 ため息交じりに征彰は言う。はっきりしない受け答えに、瑛史郎は思わず釣られため息を漏らしそうになるが何とか飲み込んだ。

 のもつかの間、教室内がざわめき始め、二人は顔を上げる。

 しかし、ざわざわというよりひそひそに近い。

 注目の人物はすたすたと迷いない足取りで視線もいとわず無表情のまま征彰の隣に立つ。


「なあ、ちょっと話があるんだけど」


 征彰は白いノートを伏せて、黙って頷いた。


「いや、あれは怖いわ」


 ゆうに連行される征彰の背中をあわれそうに見送り、瑛史郎はつぶやいた。

 しかし、優は表情ほど怒ったりはしていなかった。むしろ心配を義務的に隠しているようだ。

 優の後ろをついて行った征彰は生徒会室に案内される。しかし郁人が登校していないため鍵が開いているはずはなく、優は扉に手をかけて軽く引くが鍵がかかっていることを思い出してひっこめた。


「今日、郁人が登校してない。さすがに心配なんだけど……何か知ってる?」


 征彰は頷くべきか迷う。しかしその無言は肯定だということに気づけなかった。優は確信して話を進める。


「郁人は父親から度々暴力を受けてるのは言ったよな」


 優の手が首から下がったヘッドホンに伸びる。有線のコードを引っ張ったり、所在なさそうに指に巻き付けた。


「昔、郁人の両親が学校に乗り込んできたことがある。去年の文化祭の日、郁人は両親に黙って参加してた。でも当の両親はどこからかその情報を得ていたんだ。郁人は怒り心頭の両親に、教員室に呼び出された。もちろん俺は拓実……当時の生徒会長と一緒について行ったぜ。家庭事情なんかも察してたし、嫌な予感がしたから」

「それで……」

「郁人は平手打ちを甘んじて受け入れようとしてた。俺は……情けない話そんな勇気なかったけど、拓実が割って入ったんだよ。そしたら拓実が殴られた。その時、俺は初めて見たんだよ。郁人が泣いて懇願こんがんしてるのをな。誰にかわかる?」


 誰に懇願したのか、その質問で征彰の顔は青ざめていく。


「拓実に言ったんだよ。お願いだから警察には言わないでって。当たり前だけど俺も拓実も心底引いた。だって日常的に殴られてるそれを一回分肩代わりしてやったのにだぜ? わけわかんないだろ」

「……」

「多分一番の理由は弟」


 弟。

 一度だけ話に出てきた郁人の唯一の兄弟だ。


「弟は父親と同じ医師を目指してる。知ってる? 医学部試験っていうのは二次試験で面接があるんだよ。経歴とか親の職業とか、人間性とかな。医者になるべき人物としてふさわしいかそこで選別する。前も言ったと思うけど、郁人の父親は医師をやってる。もし家庭内暴力が浮きりになったら、父の職業は取り上げられるかもしれないし、弟の受験にも少なからず影響するって……考えただろうね」

「だから、黙って受け入れてたんですか」

「郁人が今どこにいるかは知らないけど、もしきみの側にいるならその心のコップの水があふれたのか、コップが欠けたか、良ければ溢れる前に水を分けに行ったのかも。受け入れる器に何か起きてることは明白」


 優はポケットを弄ると、ひとつロリポップキャンディーを取り出した。


「なんですかこれ」

「大場先生から聞いた。もう鍋島くんの名前は『保安局』のデータベースに記録されてる。機密事項を知る関係者の一人としてね」

「もしかして佐倉先輩も」

「あ、そうそう。怪我って目に見えるところだけにあるものじゃないから。例えば……足とか胸とかとか。あとお腹」


 腹にぐいとキャンディーを押し付けられて征彰はそれを受け取った。

 優は信頼の目を向けながら口を開く。


「それは信頼の証。『保安局』の一員として、郁人の友人として、俺はきみを信用することにした」


 優はそう最後に言うと征彰の横を通り過ぎると、肩にかけていたヘッドホンを耳に装着した。コードが伸びるポケットの中で手が動いている。


「……怪我……」


 ポケットから携帯を取り出して、検索窓に文字を打ち込む。検索結果を下へ下へと眺めて征彰は歯を食いしばる。

 やはり病院に連れて行くべきだ。

 部活を休むべく、征彰は断りを入れに三年の教室に早足で向かった。

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