36 鶏鳴(4)

 懐かしい。

 夢に見てから、より懐かしさを感じさせた。

 平萩と鍵島のちょうど間にある公園。

 当てもなく歩いていたらなぜが懐かしいそこに足が向いていた。

 郁人は広場を越えた一番奥のブランコに腰掛けた。きぃきぃと金属がきしんで、郁人の身体が揺れる。ここがすべての発端の場所。


「……疲れた」


 一人だと独り言が言いたくなってしまう。

 太くて頑丈がんじょうで幼い子なら指を詰めそうなブランコのチェーンに首をあずける。

 ピリッとした痛みを感じて額を抑えると、手にはぬるついた血と固まった塊とがこびりついていた。おそらくこれは立派な虐待に該当する。しかし別段警察に駆け込むようなことはしない。今まで耐えてきた全てを水の泡にはしたくない。

 でも、もう何もかも無に帰してしまいたい。そんな相反あいはんした感情があるのも事実だった。


「わがままを言って許されたいなぁ」


 目を閉じチェーンに体をもたれた。

 あの日のように寒くもないしもちろん雪も降らない。郁人は中学生じゃないし、あの征彰はここの征彰とは違う。

 いろんな人に迷惑をかけた。

 郁人は柄にない乱心で、髪をくしゃくしゃにき乱す。

 ブランコはきぃきぃと音を立てて揺れた。


「夜一人は危ないですよ」


 郁人はチェーンに預けていた体をもたげた。

 偶然か必然か郁人は見上げたまま安堵あんどの息を吐く。


「鍋島くん」


 全身を身軽な格好で包んだ征彰はまさにランニング中らしく見える。街灯に逆光になっている征彰の顔は不安そうで、その手がそっと郁人のひたいに触れる。


「血、すごいですけど」

「あー……大丈夫。ちょっと喧嘩けんかしただけだから」


 征彰の眉がピクリと揺れる。まだ誤魔化すつもりなのか、ととがめられているような気もした。


「もしかして、逃げてくれたんですね」


 Tシャツにスキニーとひっかけてきただけのカーディガン。征彰は郁人の全身を見て察した。

 郁人はうつむいた。自分がどんな顔をしているのかわからない。

 けれど征彰は郁人の顔がちゃんと見えるように目の前にしゃがみこんだ。葛藤している子供を前に諭そうとする大人のように。


「手当しましょう。血は止まってますけど、綺麗にするべきです」

「心配されるほどじゃないよ。見た目より酷くないから」

「俺は責任を負うって言いました」


 征彰は動くつもりのなさそうな郁人の手を引く。

 本当に、人を頼っていいのだろうか。彼のせいにしていい?


「ここからだと家まで二十分ほど歩きますけど、大丈夫ですか」

「……うん」

「じゃあ行きましょう」


 有無を言わさない疑問文に郁人は首を振った。

 頼るのはもう決定してしまっているらしい。

 ズキズキと痛む腹をかばうのがバレないように、征彰の後ろをついて歩いた。




五月一日 水曜日


 布を引っ掻くような感覚で意識が浮上する。はっきり目が覚めるとそこは白いシーツの上だった。

 はっとして周囲を見回すが室内に時計はない。

 そこは日曜の朝と同じ光景で、そっと和室の襖を引いた。

 空間はとても静かで人の気配がない。レースカーテンから透けて窓から降り注ぐ春の陽気と穏やかさがまるで夢の中にいるようで心地良かった。対称的にひんやりとしたフローリングをひたひたと進む。

 ちょうどテレビの上に掛けられた時計を見ると、短針は十時を指していた。

 ひとまず顔を洗おうと、周囲をきょろきょろと見回りながら慣れない洗面所にたどり着く。鏡を見ると、そこに映っていたのは涙の跡がついた目元、頬の新しいガーゼと額の大きな絆創膏が張られたボロボロの自身の姿だった。


「……最悪だ」


 みじめさに郁人は洗面台に寄れかかるようにしゃがみ込んだ。全く頭を抱えたくなる。

 昨日は何があったのか、記憶は半分ほど失っている。征彰の家に着いた途端、脳震盪のうしんとうを起こしていたのか、郁人は崩れ落ちるように倒れ込んだのだ。

 制服も制鞄もない。家の鍵もないので、それらを取りに行くことは可能ではない。この時刻には父親はもう診療所だろうし、母親はいつも通り料理教室にでも向かっている時間だ。そして何より、あそこに行くこともはばかられた。

 ダイニングに足を運ぶと走り書きの置手紙を見つけた。


──今日一日は安静にしてください。パントリーの下の棚にカップ麺とか袋麺があるので好きに食べて大丈夫です。予備用の白い箸を使ってください


 しかし食べる時間以外は何もすることが無い。征彰が帰ってくるまで、この家の鍵を開けたまま外出するわけにもいかない。

 郁人はもう一度時計を見て、情けない自分にため息をついた。

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