35 鶏鳴(3)

 両親の冷たい視線は食事時に全く似合わない。美味しい料理も不味くなる。母親は自分の作った料理が自分や夫のせいで不味く感じられているのをわかっているんだろうか。

 口の中を切ったせいでやはりれた部分が痛い。昼のカフェではそう思わなかったのに、きっと空気が静かなせいだ。

 食器音だけが響く夕飯時なんていらない。特に日曜日、楽しい食事を知ってしまったせいで相対的にも気分が悪い。

 何よりピリついた空間で兄やら両親に囲まれている颯人が可哀想だろう。

 自分の分の食事を片付けると、手を合わせてから食器を積み重ねて流しに置く。


 出来るだけ刺激しないように自室に戻ろうとした郁人を、父親は無慈悲むじひにも呼び止めた。


「ちゃんと話をしないか」


 颯人は空気を読んでご飯を掻き込んで、自室に逃げていくように階段を早足で駆け上がっていった。

 郁人は足を階段に向けたまま体をねじるように振り返る。

 母親も同席するらしい。味方のいない話し合いなんてそれは話し合いではない。母は中立のように見えて常に父の味方だ。郁人の肩を持ったことは一度としてない。当たり前だ。二人には郁人が不良息子に映っているのだから。


「……」


 先ほどまで座っていた席にもう一度腰掛ける。どうせ一方的に責められるだけだ。早く逃げたい一心でいた。郁人は黙って次の言葉を待つことにした。


「どうして許されると思ったんだ」


 郁人はテーブルの木目をじっと見つめた。征彰がしていたように木目をなぞるように目で追う。


「二年になってコース分けもあったはずだ。理系コースは全学年の三分の一くらいだろう。どうして一位が取れない」


 わざとだから。

 そんなことを言ったらきっと命はない。


「家に遊びに行った後輩の名前、聞き出してきたんだ」

「……誰から?」

「担任教師からだ。随分有名だそうだな。スポーツ選手の息子だなんて、一緒に居たら馬鹿が感染うつる」

「嘘ついたの? あなた、お父さんに」


 母親は口を開いた。父親至上主義の母親はそういったことに過敏かびんに反応する。

 郁人は学力至上主義な父親の言い分に頬がひりつくのを自覚した。言い返せないくやししさに下唇をむ。


「そもそもだな、一緒にいて利益のないやつとからむ時間がどこにあるんだ」

「そんな、利益で選ぶようなことじゃない」

「いつからそんな態度を取るようになった!」


 ガタン、と大きな音を立てて父親は椅子から立ち上がった。顔を真っ赤にして口にしたいことも喉奥で爆発しているような形相だ。

 胸ぐらをつかまれて郁人はなんだか気分が冷めていた。馬鹿は貴方だと言いたい。息子一人の考えていることにずっとだまされ続けていた人に、どうして胸ぐらをつかまれているんだろう。


「……ずっと前からこうすればよかった」


 この人の本当の息子と自分が似ているとは郁人は全く思えない。しかしこの人は息子がすり替わっていることに気づけなかったのだ。いつ不届ふとどきものになったかなんていう些細ささいな性格の変動に気づけるはずもない。

 湿布が張られたところを狙うように裏拳が飛んでくる。昨日と同じフォームなので避けることは容易だった。でも、逃げてはいけないという固定概念が残っていた。

 鈍い音がして、鋭い痛みが頬に走る。同じ場所を殴るのは湿布が増えていては怪しまれるからだろう。頭に血が上っていても妙なところで冷静な悪徳医師だ。


「こっちに来なさい」


 二人を阻んでいたテーブルから離れる。そして郁人は全身の筋肉を強張こわばらせた。文句を言わずに筋トレしておけばよかった。そう思ったのと腹に拳が叩き込まれたのはほぼ同時だった。


「──」


 夕食を戻しそうになるが何とか喉を締めて堪える。下唇を噛んで、鈍い痛みをどこかへやる。郁人はそのまま抵抗もせず壁を背に張り付いた。力は逃した方がいいと郁人も思うが、床に倒れ込んでサンドイッチの具にされるのは避けたかったのだ。

 母親が何も言わないあたり困った両親だ。父、大なり、母。夫婦の力の差は如実に見えていた。

 頭を壁に押し付けられる。摩擦まさつの具合でやけどでもしそうだった。しかしながら壁に穴が開いたらどうする気だろう。意識を逸らして壁の模様を目で追っていた。


「お前を息子とは認めない」

「……はは」


 乾いた笑いが漏れた。郁人は鈍感な父親に半分呆れさえしていた。これが素直にれた笑みだなんて思いたくもなかったけど。


「俺も、貴方を父親だと思ったことはない」


 勢いよく額を壁に叩きつけられて皮膚が切れた感触がした。流血沙汰なんてたまらない。痛いのは嫌だとあれだけ思っていても結局は痛い目に遭うのだ。

 これでは風呂で頭を洗うのも傷が染みてかなわない。

 父親の手は郁人の頭から離れる。郁人はかぶりを振って、その手から逃れた。初めて逃げた。駆け足で反対側の扉へと向かう。この人の手で死ぬのだけは御免ごめんだと思った。

 郁人は手を伸ばしてリビングのドアに手を掛けた。


「どこに行くんだ!」

「逃げてほしいって言ってくれた人がいるんだ」


 父親は血のにじんだ郁人の顔を見て我に返ったようだった。でも郁人は惨状さんじょうに見合わず笑っている。

 両親は郁人の表情におののいた。手を伸ばして引き留めようともしない。こんなのと血がつながっているとも思いたくないだろう。幸い、両親然とした二人と郁人の血はつながっているようで繋がっていないのだ。


「確かに俺は馬鹿だよ。ここまでして、やっと踏ん切りがついたんだから」


 郁人は夜の住宅街に着の身着のまま飛び出した。

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