33 鶏鳴(1)

四月三十日 火曜日


 人目をはばかるのにこの教室は便利だ。持ち出し用の鍵は郁人いくとしか持っていないし、その他の教員が気やすく入ってくるような場所でもない。郁人以外の生徒がこの部屋の鍵を開けるには、教員室で鍵を借りてくる必要がある。

 生徒会室の窓は西向きなので、夕方になるまで日が差し込んでくることもない。つまりとても快適だ。

 総じて生徒会室がここまで居心地が良くなるとは思っていなかった。

 郁人はジャケットを脱いでパイプ椅子の背もたれに掛けた。硬い長机に腕を枕に突っ伏して目を閉じると目蓋まぶた越しの明るさはまぶししすぎなくてちょうどいい。

 日曜から始まった窮屈きゅうくつな生活は、身体的な痛みを増幅させている。

 自室は閉鎖されてリビングで寝て、起きて、そのそばには父親がいて。心が休まる暇がないのだろう。目は冴えてしまって睡眠時間は夜二日分合わせて四時間ほどしか取れなかった。

 一時間目の予鈴まで寝て居ようと眼をつむるものの、風が窓を揺らすなどの些細ささいな音にすら怯えてしまう。

 扉をノックする音に目をしばたかせると気だるげに上半身を起こした。どうしても邪魔の手が入るらしい。

 扉を開けると神妙な顔をした征彰まさあきが立っていた。朝練から教室に向かう途中だったのか、サブバッグを担いでいる。


「……何しに来たの?」


 征彰は答えなかった。

 ひとまず教室に入れて、郁人は倒れこむように椅子に腰を下ろす。頬杖をついて言葉を待っていると、征彰は正面の席に座った。

 大きなサブバッグに手を入れて何かを取り出したかと思えば、それはモノクロの千鳥格子ちどりこうし柄のクッションのような何かだった。よく見れば防災頭巾の入った座布団の代わりにもなるそれだと分かる。


「まだ一回も座ってないので、どうぞ」

「……」

「眠れてないんですよね?」

「なんでわかるの?」

「そんな濃いくま見せつけられて、体調万全だと思わないわけないですよ。予鈴には起こすので寝ててください」


 郁人は差し出された枕替わりを受け取って、腕で抱えながらうつ伏せになってみた。机に当たっていた頬の痛みが軽減されて自然と目蓋が下りる。

 睡眠を誘導されるようにそっと視界が暗がって、郁人は意識を夢の中に手放した。




──四日前。記憶回復の前日。


 その昔、心理学者のジークムント・フロイトは提唱した。イドという無意識の衝動は生の欲動リビドー死の欲動デストルドーの発生源だ、と。

 そして、その二つは一という単位の中に割合として含まれている。つまり、生の欲動が五割あれば、死の欲動が残り五割を占める。生死の葛藤かっとうとはこのようにして生まれるのだろう。

 死の欲動という概念は多くの心理学者が否定した。

 けれど生の欲動が減った時、たしかにその隙間に死の欲動が治まるのは納得がいく。言葉上では。


「ですからね、手っ取り早くその割合を移行させてしまえばいいと思うのです」


 三島みしまは自信に満ちたような口調で言い放つ。


「どうやって移行させるんですか?」


 郁人の心の中は基本、生の欲動の割合が少ない。だから必然的に死の欲動の割合が高まってしまうのだ。と、三島は言いたいらしい。

 三島は休憩室にある自動販売機で購入したお茶のペットボトルを、両手で抱えた。そのまま視線は窓の外に泳いで、戻ってくる。


「興味の向きを変えるんですよ。フロイトに傾倒するなら生の欲動は性衝動です。この場合、性と言うと言い過ぎかもしれません。もちろん、ユングのようにすべての快感を満たす感情と捉えてもいいですが」


 三島の意味深な視線の意味に気づく。


「どうですか? 仲良くやってますか」

「……何かしたんですか?」

「私は貴方を助けるための指示書をちょっとお渡ししただけです」


 三島が征彰に接触した。郁人を助けるために。

 何が書かれた紙を渡したのかはわからないが、きっと征彰の感情を裏から動かすための何かなのだろう。

 三島が見下ろす鍵島の街を郁人も同じように眺める。


「少なくとも過去、私はこの方法で一人の人間を救っているんですよ」

「……」

「前例があるから私は貴方にもそう仕向けられる」

「そんなこと、俺に言ってもいいんですか?」

「言ったら意識するでしょう?」


 三島は満面に笑みを浮かべて言う。


「貴方は仕掛けられていることがわかっている。でも、鍋島さんは知らずにわなに掛けようとしてくるんです。これほど楽しくて身構みがまえることはないじゃないですか」

 三島は作戦を明かしたのは、それも作戦の内だから。脱帽だつぼう策士さくしっぷりに郁人は閉口する。

 そんな様子の郁人に三島は満足そうに頷いた。赤いフレームの眼鏡のレンズが心なしか光っていた気がした。




 がた、と椅子が揺れた気がして郁人は目を覚ます。目蓋を押し上げると、大場おおばが目の前に座っていて思わず飛び起きた。


鍋島なべしまは授業をさぼるわけにはいかないからな、役割交代だ」


 大場は腕を組んだ姿勢のままそんなことを言う。

 時間を確認しようと辺りを見回していると、大場は郁人の行動から察したように腕時計を見た。


「十二時三十分」

「授業、は」

「休みだと言っておいた。平松は何も言わずに出席マークつけてたけどな」


 郁人の担任である平松もまた、郁人の家庭に何かあると勘付いていたのか知っていたらしい。おそらく親に欠席がバレることを危惧きぐする郁人を察してくれたのだ。安心のあまり思わず脱力して、背もたれにもたれ掛かった。


「十分後には午前授業も終わる。そうしたらまた鍋島もここに帰ってくる。俺は教員室に戻るが、いいか?」

「……はい」

「よし。本当は保健室に行くのが一番いいと思うけどな、妥協だきょうだ。本当に壊れる前に逃げるんだぞ」


 肯定も否定もせず郁人が黙っていると、大場は呆れ半分の表情で部屋を後にした。

 まさか午前の授業をすっぽかしてしまうなんて。けれど思った以上に罪悪感は感じられない。四限目が終わるチャイムが鳴ると、しばらく走るような足音がしてノック音のすぐ後にそろりと扉が開く。


「起きてたんですか」

「予鈴には起こしてくれるって」

「すみません。でも睡眠不足で熟睡してる人を叩き起こそうとは思えなかったです」


 征彰は人目を気にしながら部屋に足を踏み入れた。今朝と同じように目の前の席につく。気に留めていなかったが、なぜかまた手にサブバッグを持っている。


「午後はどうするつもりなんですか?」

「午後は……」


 出席簿に欠席として登録されていなくても、クラスメイトには欠席として伝わっているだろう。今更教室に行く勇気もない。


「俺はサボりますけど」

「そんな堂々と宣言しなくても」

「さっき教員室で大場先生に早退しますって言ってきてしまったので」


 大場も割にすんなりと頷いたのだろう。


「七時間目には学校に戻ってくるとして、どこか行きませんか。駅前でも」


 郁人は腕の中に抱えたままの、借りた枕替わりを見下ろした。夢に見た三島が郁人に囁いている。あの人はよく分からない。

 でも、征彰はあの手この手で差し伸べてくる。


「制服で堂々とサボって、バレたら一緒に怒られてくれるの?」

「バレないようにするんですよ」


 慣れているのか、征彰はふっと悪そうな笑顔を見せた。

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