32 瓦解(7)

 郁人は電車の存在を忘れて平萩にある自宅まで走っていた。


 全部。

 全部失った。

 本当笑えるくらい馬鹿すぎる。


 むしゃくしゃして、乱雑に鍵を捻る。上手く回らなくて、がちゃがちゃと試行錯誤の上カチンと鍵の開いた音がする。

 そして玄関の扉を開けると、父親が立っていた。


「……。父さん、えっと仕事は……」


 月曜の夜まで帰ってこない予定だったはず。


「どこに行ってたんだ」


 廊下の奥に目をやると母親がぽつんとこちらを眺めている。


「お父さん、仕事が早く終わって予定よりも随分ずいぶん早く帰ってこれたのよ」

「どこに行ってたんだ」

「……後輩の家に泊まりに」

「生徒会か」

「ただの後輩だって」


 郁人は足をじりじりと後退させる。少しでも言い返せるようになっている、ということに郁人は気づいていなかった。

 父親は郁人の変化に顔をしかめた。

 郁人はその表情を、生徒会を敵視しているからだ、と勘違いした。過去の行いの影響だ。拓実と優が父親に楯突たてついたからだと。


「ほんとに、ただの後輩」


 人の家に泊まりに行くことは、安達家では基本タブーらしい。確かな理由は分からないが、面倒ごとを起こさせないため、というのが一番の理由な気がする。あとは過剰にもほどがある過保護。


「生徒会の活動はいつあるんだ?」

「……不定期だけど、大抵は火曜日」


 知っている。これは良くない流れだ。

 けれど郁人は委縮いしゅくして素直に聞かれたことに答えるしかできなくなる。

 父親は手を差し出してきた。


「体育祭は中間テストの後だったな」

「それは、そうだけど」


 手をずいと寄せてくる。郁人は予想外の行動にうまく対応できない。郁人は差し出された手の意味が分からないわけがなかった。


「早くしなさい」


 父親の手のひらに大人しくその物体を乗せる。平たい長方形の機械を。頻繁ひんぱんには使わないそれだが、これを失えば過保護な我が家ではどうなるか目に見える。

 受け取られた精密機械は床に投げ捨てられた。大きな音を立てて床はへこみ、そのまま壁まで滑りかつんと音を立てて静止する。スマホの画面は遠目からでもわかるほどに細かくひびが入ってしまっていた。


「……父さ──、……──ッ」


 よそ見する間に気づけば郁人の頬には裏拳が叩き込まれていた。郁人はよろめいて壁に寄り掛かる。

 口の中を切ったかもしれない。血の味がにじんでいた。生理的に滲んだ涙が視界をゆがめる。平手打ちとは比にならなかった。

 これが、自ら選択してる未来だって? 被虐ひぎゃく趣味以外ありえない。


「……な、なんで!」

「何も聞くことはない」

「なんで、父さんは──」


 郁人は言葉を区切った。これを言い切ったら良くない。

 急にぴたりと黙りこくった郁人に父親は冷めた目で見下ろす。


「何時登校だ。帰りは何時だ」

「……は、八時登校で、五時には下校する」

「じゃあ明日からパスケースはいらないな」


 自宅が管理する駐車場にとまっている父親の愛車をふと思い出す。

 壁についた手が壁紙を引っ掻いた。

 長期休みでなくてよかった。監禁されないだけマシなのだ。




四月二十九日 月曜日


 大場は前に立つ生徒を見上げてため息をついた。

 目じりとほおに絆創膏とガーゼ、明らかに湿布の時よりも悪化している。口の中を切っているのだろうか話しづらそうにしていた。

 郁人の様子は明らかに異様で、教員室の他の教員たちはちらちらとうかがっているようだった。郁人は視線から気を逸らすように、首ごと斜め下を向いた。


「なんでそこまで病院を拒否するんだ」


 郁人は答えない。

 机に突っ伏し気だるげにしていた郁人について、響子が大場に話したのだ。

 顔面に傷を負ってきたのは少ない話じゃないがここまであからさまなものは初めてだった。クラスメイトもさぞぎょっとしていたのだろう。


「……いつか、死ぬぞ」

「もういい」

「おい、安達」

「今のところ自分の存在価値が見いだせません。大人しく医師を目指した方がマシなのかな。もしかしたらそれすらも……。俺はいない方がいいですか」

「なんだ、どうしたんだ」


 大場は本気でここまで心配したことがなかった。今回に関してはいくら何でも怪我がひどすぎる上に、精神的にも消耗しょうもうしきっているようだった。受け取る感情の量が圧倒的に増えている。

 郁人は目元を片手でおおう。眩暈めまいもあるのか足取りもふらふらとしていておぼつかない。


「せめて保健室にでもな」

「いいんです。昨晩ちょっと微熱が出て寝不足なだけです」


 よく見ればしきりに瞬きを繰り返していた。郁人は眉根の寄った表情で言う。誰もが目に見えて疲労していた。


「失礼します」


 そんな郁人と入れ替わりで教員室に入って来たのは征彰だった。

 不意を突かれて、郁人は征彰の肩にぶつかる。よろめき、初めて出会った時のようにりも聞かなかったらしい。征彰に支えられて、郁人はようやっとの様子で顔を上げる。


「……」

「怪我、酷くなってるじゃないですか」

「ごめん。しばらく好きなことはできそうにない。校門にまで迎えが来ることになったから」


 征彰の質問には答えず、言いたいことだけを早口で言って郁人は教員室の扉を閉めてしまう。去る足だけは速くて引き留めようとも思えない。


 征彰は片手に担いだクラスの提出物を大場の席においた。


「読んだか」

「読みました。あまり理解はできませんでしたけど。ドラマも見ました。言われた通り」


『超機密事項』の冊子の事だろう。

 征彰が素直に言うと、大場は深くうなずいた。


「鍋島は平然としてるな。もしかして何もなかったのか?」

「いえ」


 大場は積み上げられた提出物の山に手を伸ばしかけて止める。


「思い出したみたいです。特に昨日は逃げ帰られたので」

「……お前はなんでそんな冷静なんだ?」

多分辿たどってる人生のルートが違うんですよね。ある意味当事者じゃない、とか」


 征彰は上手く言語化できないと言葉を探る。


「安達先輩が自分に罰を科せるほどの罪は、俺自身は受けていないんだと思います。実際傷つけられたと思ったことはないですし、そのやっと思い出した二年間に俺は大した交流も持ってない。俺の知らない俺にどうやら何かしたらしいです」

「つまり……なんだあいつは、ずっと一人で空回ってるって言うのか」

「あまりそう思いたくはないですけど、そうかもしれません」


 謝りたい相手はもうここにはいない?

 大場は郁人の急な精神的な消耗の大きさの理由に納得した。解離性健忘症かいりせいけんぼうしょうは完治した。代わりに思春期に得た感受性や感情を取り戻したのだ。

 征彰は教員室を出る。ちょうど、教員室を出た広い廊下からは校門前が見下ろせた。

 一人の影が生徒の群れにまぎれて一台の車に向かって歩いていく。

 黒のセダン。

 その影は一瞬こちらを見上げた気がして、征彰は手を伸ばしかけた。

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