31 瓦解(6)

四月二十八日 日曜日


 白いシーツの中で目が覚めると、見かけ上、郁人の小指のれは収まっていた。しかし、ズキズキと骨にひびくような痛みという症状が増えていた。

 郁人はあの日、征彰にひどいことを言ってしまった。その事実に耐えられなくなって、つぐないたくて、一年越しに郁人はばかばかしく思いながら小指に青い糸を巻き付けた。

 つまるところ、ここまで罪悪感を感じているのは人を傷つけたということと、自分の急な新しい感情を受け入れられなかったことのため。


「……」


 昨日着ていた制服に着替えリビングに足を踏み入れると、キッチンの方からガリガリというけずるような音と、コーヒー豆の香りがただよっていた。

 郁人がキッチンに目を向けると征彰がコーヒーミルに執心している征彰の姿があった。


「……おはよう」

「おはようございます」


 昨日の郁人の乱心なんてなかったかのように、征彰は普通に挨拶あいさつを交わす。

 寝て覚めたら忘れるタイプなのか。それとも彼にとっては気にするに足らないことなのか。


「コーヒー、飲みますか?」

「ごめん、苦いのはちょっと」

「お湯で溶かすやつですけどミルクティーもありますよ」

「……じゃあお願いしようかな」


 一晩で脳の整理がつくはずがない。視界のまくがれたようで、世界とダイレクトに接している感覚はまだ郁人を戸惑とまどわせていた。

 真っ白のマグにコーヒー用に沸かしたものだろうお湯が注がれる。ティースプーンで軽くかき混ぜられたそれを、郁人はたじたじしながら受け取った。


「その、昨日」


 征彰は細かくかれたコーヒー豆の粉末に残りのお湯を回し注いでいる。

 郁人は目が合わないチャンスだと思って口を開いた。


「昨日、変なこと言ってごめん」

「変なこと?」

「その、現実と妄想が混じったみたいなこと言って。びっくりしたでしょ、なんか変だよね」


 郁人は自嘲じちょうするように口元をゆがめた。

 そうだ、全くもって変だ。

 自分は妄想癖もうそうへきのある精神病患者だと思った方がかなり真っ当だと思う。全てを思い出して、よりそう思った。ぜんぶ水槽すいそうの中の脳が考えていると思えば自然なこと。


「うーん……でも、安達先輩が経験したことって、全部現実ですよね」


 こぽぽ、と注がれたお湯に、フィルターから溢れんばかりの泡が盛り上がる。征彰は金属製の細口ポットをコンロに戻した。


「『保安局』に監視されてるって」

「なんで知って……」


 征彰は階段をすたすたと登っていくと、間もなくして下りてきた。


「大場先生がこれを」


 手には一つの冊子。『超機密事項』と表紙にでかでかとプリントされている。こんなに嘘くさい書類は初めてだ。

 郁人は征彰の顔を見る。どうぞと手を差し出してきたので、郁人は受け取り一枚目の表紙をめくった。そして軽く目を通してから思わず言葉がれる。


「……超弦ちょうげん理論か」

「ちょう……なんですか?」

「超弦理論。あるいは超ひも理論。この世の最小単位である素粒子はいまのところ十七種類存在するんだけど……」

「最小なのに十七種類もあるんですね」


 紙面の文字を指でさらりとなぞる。

 三島みしま奈子なこ


「うん。その疑問を解消してくれるのがこの超ひも理論ってやつ。……素粒子は体積のない0次元的な粒じゃなくて一次元的なひもだって解釈する。そうしたらひもによってできる波の作り方で十七種類、またはそれ以上を表せるようになる、っていう話。これの欠点は他にもいろんな問題が解消されるけど……別の問題だって生まれてくるってこと。だからまだ理論」


 郁人はまたページを捲る。


「これ、大場先生からもらったんだよね? その……理解できた?」

「いえ全く」

「だよね……」

「でも、一つだけ決定的なことだけは分かりました」

「……」

「安達先輩は自分にばつせているんですよね? もっとわがままに従順になっていいのに、自分自身を自分のルールでしばっている」


 わがままに従順。

 郁人の口が文字を描く。


「カレーを作ってほしいってお願いしたのも、泊まり込む算段を考えてたのもわがままですよね。でも先輩は代わりにどこかでまた別の罪を負おうとしてませんか? なんか良くないこと考えてそうなんですよね」


 小指を隠す。

 このあざかせ。世界が郁人に科したものではなくて、郁人が自分自身に与えたもの。


「人って頼ってもいいんですよ。ずっと正解の道を選ばなくてもいいんです。好きなことをするのは重要なんでしょう?」


 征彰はコーヒードリッパーをシンクに下げて、マグを持ち上げる。苦みの強い香りが鼻腔びこうを突くようだ。コーヒーは苦手だけど、この匂いだけは嫌いじゃない。


「……でも、でも俺は、自分の勝手で人を傷つけて自分に嘘をついた。でもどうしてもやり直したくて出会ったことすら白紙にしたつもりなのに、自分の意思でまた会いに行ったって?」

「……」

「こんなの馬鹿じゃん! 忘れてるからって同じこと繰り返して、同じてつ踏んで」


 郁人は三島の書いた文章が許せなかった。でも読めば読むほど本当らしいのが気にくわない。


「決断をけなすべきじゃないです。たとえ、それが誰のものであっても」


 征彰は湯気の立つ郁人の持つマグを取ってテーブルに置いた。小指の腫れは引いているのに、郁人は気にするように執拗しつように触れていた。

 小さい子供の手遊びのようだ。落ち着かないのだろうと征彰は思う。


「……なん、なんで」

「?」

「なんでそう……言い切れるんだよ」


 郁人の声は震えていた。


「俺が傷つけたのは、のことなのに!」


 春の朝の青い空気がパチン、とはじけた気がした。

 郁人は息を詰まらせる。口を開いて、喉が詰まったみたいに掠れた声だけが漏れる。

 征彰はそんなことだろうと思っていた。しかし、郁人は気づいていなかったらしい。

 三島の予想は当たっていた。荒療治あらりょうじは完了した。郁人はすべて思い出したのだ。二年間の、他人にとってはすごく些細ささいな罪の意識を。他人ひとからすればとても小さな出来事で、取るに足らないような日常的な悩みが、郁人の人生を変えた。

 征彰は郁人の震える手をそっと取る。包み込むみたいに手全体を握り締める。郁人の手は力んで白んでいるのに、すごく冷たかった。


「昔、小学校で言われたことなんですけど」


 正解に固執する意味が分からない。


「もちろん、正解するのはいいことだし正しいと思います。……でも」

「……」

「でも、よく、言うじゃないですか。テストとかもやり直しが肝心だって。それって、人間関係もそうじゃないんですか? ……例えば、人って喧嘩するわけで。でも、その時って相手のことを知れていないないからでしょう? 仲直りするときって互いの気持ちを聞いて、知って、受け入れて、それで一歩前に進むわけですよ。いつもいつも教材を前に正しい道を選べるなんて、そっちの方がおかしいと思いませんか。忘れようとして逃げるのはむしろ後退じゃないですか」


 説教がましくなってしまった。

 征彰は郁人から手を離す。しかし、すぐさまその手は掴まれた。

 郁人は依然いぜんとして俯いたままだが、思わず手が動いてしまったらしいかった。征彰を引き留めるように人差し指と中指だけが彼の手に握られている。


「鍋島くんはいいの? ……俺は君の気持ちをないがしろろにしたのに、許せるの?」


 許してほしい。

 そんな懇願こんがんが目に見えた。

 郁人は過去に、征彰にそっくりのその人にどんな何を言ったのだろう。征彰にそれを知るすべはない。


「……ごめん。俺、帰るね」


 郁人は手をぱっと振り払うと、すたすたと玄関に向かっていく。征彰はそのいつになく小さく見える背中を目で追った。玄関の制鞄せいかばんは引っ掴まれて、突っ掛けるように靴に足を差し込む。


「あの、お気を付けて──」

「おじゃましました」


 郁人は征彰の言葉をさえぎるみたいに、ぱたん、と玄関の扉を閉めた。


 征彰は場違いにも思ってしまった。本来の郁人はあれほどにも感情豊かな人間だったのだな、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る