30 瓦解(5)
カレーは言い訳だった。
もちろんカレーはびっくりするほどおいしかったけど。
でもただの口実。
できるだけあの空間に戻りたくなくて、
一緒に何か食べてドラマか映画でも見よう。そうしたら夜も遅くなるのは必然で、明日は日曜日だし征彰も悪い気はしないんじゃないかっていう、打算的で最低な考え。幸運にも何か見ようという提案は向こうから持ち掛けられた。むしろ征彰は嬉しそうにして「泊まっていきませんか」って聞いてきた。
郁人は断るそぶりを見せながら、その温情にしがみついた。
借りた服は新品のものらしいけど、サイズが合わなくてぶかぶかだ。体質に
白い布団の中で猫のように郁人は丸まった。
小指が痛い。罪悪感を一身に受けている気がする。
その不安定さに代わって、ぽっかりと開いていた記憶の穴が、パズルのピースが
目をぎゅっと
しかし間髪入れずに郁人は目を見開いた。詰まった息を吐き出す。
布団の中が無限の宇宙に思えて、体がどこかへ行ってしまいそうな気がしたから。
呼吸が早くなる。脳が活性化する。ガタガタと脳の中の扉が引き出しが開き始める。二年分の記憶はとんでもない情報量だった。
郁人は浅い呼吸を繰り返す。感情よりも大きな衝動のような涙がぽろぽろと流れ落ちていく。とん、と衝撃を受けたコップから水が
犯した罪の全てを思い出した。
また、失敗したんだ。
また、不誠実な態度を取ってしまった。
関わるつもりじゃなかったのに、また関わってしまった。
「──……」
声にならない
──四年前。
一階はただのガレージ。そこには白のワンボックスカーが一台と、自転車が家族の人数分。
サラリーマンの父と事務職の母、それから年子の弟が一人。
とても一般的な家庭だった。
「
「公園。もうそろそろ帰ってくるように言ってきてくれない?」
小学六年の郁人の弟は
郁人はいつも通りの代わり映えしないスニーカーを
「七時に間に合えばいいんだよね」
「最近暗くなるのが早いから気を付けるのよ」
夕食の準備中でエプロン姿の母は玄関までやってくる。手には薄手のジャケットが二人分握られていた。
「寒くなるだろうから着て行きなさい。こっちは颯人の分」
一つに袖を通してもう一つは手に。
公園までは歩けば二十分ほどはかかる。
「自転車で行ってくる」
「怪我しないようにね」
自転車の鍵を母親から受け取って、郁人は家を後にした。
まだ空はオレンジ色をしているが、ここから淡い紫、真っ暗になるまでは早い。ペダルに体重を乗せるようにして漕げば、公園までは思ったより早く着いた。
公園の前には、自転車が五台近く止まっていた。そのうちに颯人のものもある。歩きで通う者もいるだろうから、公園内にはそこそこの人数集まっているだろうかった。
「颯人」
その場にいる十人足らずの男子らはおそらくみんな颯人と同じ年だろう。成長速度によって身長のばらつきはあるが、年齢相応の表情をしていた。
颯人は郁人に気づくなり、公園のベンチの側に建つ時計を見上げる。
「もう六時半かよぉ」
颯人は名残惜しそうに時間の経過を嘆いた。
「そう、もう六時半。母さんが七時までに帰ってくるように、ってさ。みんなも親御さんが待ってるんじゃないの? 晩ご飯の時間だよ」
みんなは口々に文句を言いつつもお腹は空いていたらしい。一人の迎えが来たことにより、素直にボールを回収したり、担いで来たリュックやら上着を着こんでいく。郁人も颯人に預かってきたジャケットを渡した。
帰る気配がなかったのはただ一人だけだった。
少しだけ周りより大人びた顔をしていて、その時に初めて見た子だった。あまり公園には来ないのだろうか。
郁人がじっとその子を見ていると颯人に肩をつつかれた。
「お母さんが有名なバレーボールの選手だって」
少しだけ
「誰?」
「鍋島……なんとか?」
「鍋島頼子の息子なの? よくテレビに出てるよね。ニュースでも評論してる」
「確かそう」
颯人は
「お父さんはパイロットであんまり帰ってこないし、お姉さんは今年から韓国に留学してんだって。お母さんも仕事とかで帰ってくるの遅いらしいし、バレーボールの練習がない日はよく来るようになったんだ」
「よく知ってるね」
「まーくんの友達が言ってたから」
まーくん、というのが彼のあだ名なのか。同じ小学校の子たちからそう呼ばれていて、颯人にも
「つまり、家に帰っても誰もいないってこと?」
颯人は首を傾げながらうなずく。いつしか帰りが遅くなったと思っていたが、みんな彼を気遣ってのことだったのだ。小学六年生とはそんなに気が利いただろうか。
郁人は自分のバレーボールを手持無沙汰に弄んでいる少年に近づいた。人気のない家には帰る気も起きないだろう。
「まーくん、っていうの? 君」
少年は顔を上げて黙ったまま首だけを縦に振った。
「本名は?」
「鍋島まさあき」
「……じゃあまーくんでいいや。僕は颯人の兄です。郁人って言うんだけど」
「郁人くん」
「お母さんは今日何時に帰ってくるの?」
征彰は表情を硬くした。
「九時過ぎ」
郁人は息を詰まらせた。
「ご飯はどうするの」
「カップ麺とかあるし」
公園前には自転車が三台残っている。郁人のものと颯人のと、もう一つは見覚えさえないが彼の物に違いない。
颯人に視線をやると肩をすくめた。そしてポケットに手を突っ込んで数枚の小銭を取り出す。公園の入り口付近に設置された公衆電話ボックスへと歩き出した。
察しのいい弟だ。
「ねえ、
「……迷惑がかかるので」
征彰は申し訳なさそうに首をうなだれた。
「お母さんいつも帰り遅いんだよね?」
嘘は言えない
公衆電話ボックスから顔を出した颯人は両手で大きな丸を作った。
郁人は征彰の空いた方の手を引っ張った。その場から立ち上がるように促す。征彰の身長は一学年上の郁人と同じくらいほどだった。しかし彼の控えめな猫背が郁人の視線を下げさせている。
「あれ、君のだよね」
白くて少しだけ傷がついている自転車を指さした。
颯人はすでに自分の自転車に
「自転車だと十分もかからないから、着いてきて。帰りもちゃんと送ってあげるから」
鍋島少年は安達兄弟の後をついて行く他なかった。
それから征彰は週に一度は安達家で夕食を取っていた。バレーボール教室がある日はそこのコーチの家で食べさせてもらうこともあり、それでも週の半分は一人の夕食だったり、
征彰が郁人に出会ってから二か月が経とうとしていた。
征彰にとって郁人の存在はかけがえないものになっていた。同学年の男子と遊ぶより、郁人と話している方が楽しかった。みんなとするサッカーもバスケットボールもバレーボールも楽しいが、郁人が中学の授業で学んだ事だったり、本で読んだことに関する話は何倍も魅力的だった。少なくとも、征彰の側にこれほど知力に
「炎色反応ってのがあってね。覚え方とかも習ったんだ」
郁人はベンチに座ったまま地面に足先を
「こういうのを火の中に入れるとこんな風に色が変わるんだって」
郁人は靴先についた砂を払うように両足を拍手するように叩き合わせる。
「不思議だよね。花火とかにも利用されてるらしいよ」
「じゃあ、打ち上がった花火を見て赤かったら『あ、これだ』ってなるってこと?」
「リチウムね。うん、多分そう。先生が言ってた」
征彰は残りの二文字も指さした。
「これとこれはなんて読むの?」
「ナトリウムとカリウムだよ。ナトリウムを湖に投げ込んで爆発する動画、学校で見た」
「他も色が変わるのあるんだよね」
郁人は斜め上を見上げて授業で習った覚え方を復唱する。
「僕が知ってるのは、リチウム、ナトリウム、カリウム、銅、カルシウム、ストロンチウム、バリウム……? かな」
ざりざり、と地面に追加で書かれるのはCu、Ca、Sr、Ba、その下には青緑、橙、紅、黄緑と並べて書かれた。綺麗に見えるように仕切り線も伸ばされる。
郁人の書く普段のノートも見やすいのだろうと征彰は思った。征彰にはアルファベットのほとんどがよく分からなかったが。
「これ以外にもたくさんあってね、次の授業で先生が実験してくれるんだって」
郁人はうきうきと毎日の授業が楽しそうだ。征彰には授業の楽しさを感じたことはないが、中学校はさぞ楽しいところなのだろうと思う。
毎日バレーボールしかなかった征彰には一つ楽しみが増えていた。最近は郁人も、颯人が公園に行くつもりがなくても征彰に会いにやって来ていた。征彰に会うことに楽しみを見出していたのだ。
それから少しして冬の初め、中学生という環境に胸を
アルファベットから周期表、x、y、マイナス、ルートとか。
「おれ郁人くんが先生なら勉強好きになれるかも」
みんなこぞってそう言った。まんざらでもなさそうに郁人は笑って、毎日のように公園の地面を黒板代わりにした。
征彰はきっと、取られたような気分にでもなったんだと思う。だって颯人ですら、ちょっと
郁人としては征彰を特別扱いしているつもりだった。定期的に家に呼んでいたし、おすすめの本を教えて、たまにバレーボールのコツを教えてもらう。家族との関わりが少ない、征彰の心の隙間をちょっとだけでも埋めている気になっていた。けれど足りなかったらしい。
征彰はもっと欲しがった。
あの日は冬の半ば。ちらちらと雪の降る公園で、そこには征彰だけがいた。
軽い運動を繰り返して基礎練習のような動き。
「今日は征彰だけ?」
郁人は征彰にそう呼んで欲しいとお願いされていた。断る理由もないので郁人は言われた通りそう呼び続けている。
「みんな家でゲームするって。雪降ってるし寒いから」
「雪なんてたまにしか降らないのにもったいない」
颯人は中学生に向けての勉強をするための塾に通い始めたころだった。
征彰の隣を通り過ぎて郁人は公園のブランコに腰掛ける。
「人いないから特等席だね」
横のもう一席を目配せするが、征彰はまっすぐ郁人の方に歩いてきた。
髪に雪が積もっている。黒い髪に白い雪は目立つから。気温も低く髪に触れただけでは雪は溶けなかった。
郁人は近づいてきた征彰の頭に手を伸ばす。
しかしその手は空振りした。手首を掴まれてそのまま体を抱き寄せられて、顔が急接近する。
「……」
寒空に
妙に熱く感じて、郁人は何が起きたのかよく分からなかった。
自身の唇に触れて、乾燥にある湿り気に気づいた。
いつもは気持ち悪いと思っていた感情がなぜか居心地よくて、よく分からなかった。
普段の視線より征彰の目の方がよっぽどまっすぐに見えて、視点がぐるりと変わってまるで今まで見ていた世界はオブラートに包まれていたかのように今はクリアだ。
どうしてこうなってるんだろう。何が変わったのか、変えさせられたのか、何か増えたのか。
「……わからない」
自分の感情が、わからない。
けれど征彰は
「もう、会いに来ません。ごめんなさい。忘れてください」
久々に聞いた堅苦しい敬語。壊れていく。
「あ──」
それから『まじかる☆ばなな』が流行るまでの約一年、郁人の生活には空白ができていた。
弟が冗談交じりに青い糸を小指に巻き付けていた時、これしかないのかもしれないと冷静ではない判断をしてしまった。母から借りた刺繡糸は細くて少し結びにくかったけど、勝手には外れない固結びができた。
そして布団にもぐり、目を覚ました時には。
知らない常識が蔓延る世界にいた。
一切を忘れた自分自身を添えて。
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