29 瓦解(4)
郁人が他人の家に招かれたは初めての事だった。
二階建ての一戸建て。玄関をくぐって長い廊下を進んだ先のリビングは吹き抜けで、郁人は思わず放心して見上げる。
郁人の頭上では天井に取り付けられたシーリングファンがぐるぐると回っている。建築系の番組でしか見たことがなかったデザイン性に長けたその家に郁人は少し緊張していた。
「吹き抜けにするだけでこんなに開放感があるもんなんだね。外から見ても大きなお家だとは思ってたけど、中から見ても広いんだ」
ありきたりな感想しか思いつかなかったが、郁人は心底感動していた。
征彰は口を開けたまま天井を見上げているのを傍に、キッチンでエプロンをつける。高校入学と共に新調した黒の無地だ。
「アレルギーとか苦手なものありますか?」
「ううん。今のところ何も」
背中側に手を回してエプロン紐を蝶々結びすると、冷蔵庫の中を覗き込む。昨日買い足しておいた野菜はもちろんあるし、パントリーには月曜に買ったカレールーが残っている。
「さすがに食べるだけっていうのは申し訳ないからさ」
郁人はそそくさとジャケットを脱ぐと、中に着ていたワイシャツの
「出来ることは少ないけど、手伝わせて」
郁人は目の前に並べられたニンジン、ジャガイモ、玉ねぎなどの野菜を見て頷く。シンクを前に手を洗おうとする郁人の姿は何とも幻みたいだった。
「たぶん包丁は最低限使えるはずだから」
「お願いします」
ぐつぐつと具材が煮込まれている音がする。郁人は二人用にしては少し大きい鍋を
征彰は育ちざかりらしくたくさん食べるらしい。これ以上大きくなればどうなるんだろうか。けれどプロのバレーボール選手の身長と比べれば征彰の身長は高すぎることはないらしい。
征彰は鍋に興味津々な郁人に話しかけた。
「先輩ってドラマとか見ますか?」
「まあ……話題程度に? あまり
「『まじかる☆ばなな』って知ってますか?」
郁人は鍋から顔を上げて、少しの間斜め上を見上げた。
「花房さくらちゃんが主役やってるやつだっけ? 鍋島くんってあの子、好きなの?」
「中原がガチのファンなんですよ。俺は普段ドラマとか見ないんで、おすすめされたやつだけ見させられてて。それで必然的に知識が
中原の名前を聞いて、郁人は少しだけ動きを止めた。聞き覚えはあるはずなのに、誰だったか思い出せない。
「……それって面白いの?」
「どれも作品自体は悪くないのでそれなりに楽しめますよ」
征彰はキッチンから大型のテレビに目をやった。インターネットにつながっている上、姉が勝手に登録したドラマの
「よければ見ませんか? 結構ファンタジーらしいですけど」
「うん。いいよ」
郁人は素直に頷いた。
征彰としては少しくらい抵抗の色を見せると思ったので、すんなりと頷いてくれて安堵していた。
「あの──」
タイマーがぴぴっ、と時間を知らせた。
征彰は言葉を切って、鍋を覗き込む。郁人がせっせと細かく切ってくれたおかげでいい感じに出来上がっていた。
征彰は郁人の左手に視線を寄せる。
小指に巻かれた
「食べますか」
郁人は征彰の心境に気づくことなく、素直に
先日見た映画とは打って変わって、花房さくらは本来こういう類の女優なのだと思う。鼻を赤らめて唇をわななかせ、目からは大粒の涙をこぼす。純情系ヒロインのようなあどけない演技。
液晶の中の花房さくら、もとい
なんど、なんど試しても飼い猫は何らかで死ぬ。
何かが目的でやって来たという不確かな情報だけでむやみに世界をかき回し、猫は
四回目の死は遠回しな表現とはいえかなり残虐で、これが一時期流行っていたとは到底思えない。どうやら過去に放送されたものは、映像にいろいろな規制がかかっていたらしい。定期購読には年齢制限機能があるために本来の映像、DVDなどで販売された映像を流せているのだと。
かなり感情的なシーンだが、郁人は自分の膝を抱え込んで光る液晶にただ目を向けているだけだった。つまらない、とは思っていなさそうだが、どこか冷めたような表情をしている。
体育座りの膝に乗せられた両手。
左手はテレビの画面に照らされていて、絆創膏が巻き付けられた小指がはっきりと見える。
征彰はテレビに視線を戻す。
泣きじゃくる花房さくらは、両手で顔を
「……制御しきれない大きな力に振り回される、っていうのは結構あり得る話だよね」
郁人は征彰の視線に気づいているのか。
画面を見つめたままついに口を開く。
「神様がいるなら、すごく意地悪だよ。罪を
どこか吐き捨てるみたいに言う。
郁人はようやっと征彰を向いた。
「……この絆創膏」
画面の中で
どうしたらいいのかわからないのに、何も考えずに動いてしまった。征彰は勝手に
けれど郁人も何も言わなかった。
ちかちかと画面の光が二人分の横顔を照らしている。
「……
郁人はうん、とも、ううん、とも言わない。
ただ黙って、重ねられた手に抵抗しなかった。
征彰は手探りだけで郁人の小指に触れていた。絆創膏は細いタイプのものだったおかげで、
「馬鹿だよ」
郁人は淡々と呟いた。
「おまじないなんて常に都合いいようにしか伝承しないのに」
征彰は剥がした絆創膏を握り締めた。
液晶に照らされた郁人の左手の小指には、泣き叫ぶ小田真昼と同じ赤い
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