28 瓦解(3)

 『保安局』とは。

 物理的には解明されていない異常を抱える人々を管理、および監視する機関。彼らから一般人を守るため、一般人から彼らを守るため、そしてなにより彼らから彼ら自身を守るため設立された比較的新しい国家機関である。

 特にそのような人物らの異常性が発揮はっきしやすい地域を『エリア:インスタビリシティ』と呼称し、鍵島かぎしまは最も異常発生性の高い場所となっている。そのため初めて設置された『保安局支部』は鍵島地区支部である。

 危険度、注意度の高い人物は在住地域関わらず鍵島地区支部および本部にも登録されている。

 安達郁人あだちいくとは鍵島地区支部、本部にも名前が登録されている。


「要するに今の安達先輩は別の世界から来た人間、ってことか?」


 征彰は文末に到達してもまだ、紙面の文字列をにらんでいた。

 全く理解が追い付かない。


 どうして望まれて黙って殴られているのか。郁人が果たしたかった目的。もしかしたら自分さえも郁人の脳内に作り出された人間なのか、それともただのもう一つの可能性の世界なのか。

 灯りの消えた部活棟の更衣室の端で座り込んだまま唸る。短く切りそろえた髪を掻きむしって空を仰いだ。

 進まない手でぺらりともう一枚紙をめくると、どうも聞きなれない言葉が書かれていた。征彰は文字をなぞるように言葉に出す。


「『スワンプマン、水槽すいそうの中の脳、人の本質はどこにあるのか。見た目か、中身か、経験か、概念がいねんか、存在か』」

「スワンプマン?」


 征彰が顔を上げると、郁人が見下ろし顔をのぞき込んでいた。立ち上がろうとすると、郁人は制止するように腕を引いて腰を下ろす。

 少しここで話をしようということだろうか。電気が消えている更衣室に、どうしていると分かったのだろう。それが直感なら、また郁人は征彰に会いに来たということになる。

 征彰の脳内などつゆ知らないで、郁人は先ほどの征彰のつぶやきについて尋ねた。


「難しい話するね。哲学てつがく好きなの?」

「スワンプマンって、何ですか?」


 征彰は紙を見られないようにさりげなく伏せる。そそくさとかばんにしまい込んだが、郁人はそんな焦った様子も気にしていないようだった。


「スワンプマンっていうのは……、同一性の話」

「同一性」

「あるところに一人の男性がいて、ある日その人は雷に打たれてしまうんだ」

「突然ですね」

「ただ問題を提起するためだけの例題みたいなものだからね。大抵は突飛とっぴな導入だよ」

「それで男性はどうなるんですか?」

「そう、その男性はもちろん雷に直撃したので死んでしまうんだけど、近くに偶然沼があった。雷は沼にも落ちて、幸か不幸か雷と沼が化学反応を起こすんだ。そこで生まれたのがスワンプマン。それは死んだ男性と全く同じの構造持っていて、どんな技術を持ってしても死んだ男の生前との見分けや区別がつかない。つまりは脳だって全く同じだから思考回路や持っている知識だって同じ、のはず」


 はず、と強調したのはそれがこの問題を大きく左右する要素になるからだ。


「それがスワンプマン、って話なんですか」

「うん。この亡くなった男性とスワンプマンは同一存在と呼べるのか、呼べないのか、っていうのがこの思考実験の意義。似た話にはテセウスの船とかね。これも同一性の話だよ。構造の同じ二つは果たして同じものと言えるのか。その二つを同じとたらしめるものは何なのか」


 まさに人の本質はどこにあるのか。

 見た目か、中身か、経験か、概念か、存在か、はたまた。


「それから水槽の中の脳、だっけ」

「はい」

「なんで急にそんなこと言い出したの? 詳しそうでもないし」

「……。倫理りんりの授業で」


 倫理教師である大場ならこれくらいの雑談はしてくれそうなので盾になってもらう。

 咄嗟とっさに嘘をついたが郁人は疑っていないようだ。それだけでなく丁寧にも水槽の中の脳について教えてくれるようだった。


「水槽の中の脳は……有名なところで言えば、『マトリックス』っていう映画にこの話が出てくるらしいんだけど。脳を培養槽ばいようそうにいれて超高性能コンピュータにつなぐ。コンピュータで操作した脳は通常の脳と同じように働くとき、人々が見ている世界は水槽にぷかぷか浮いている脳が見ているだけの世界なんじゃないかって話」

「……それって脳にコンピュータをつないだ人間はどういう解釈になるんですか?」

「こんな思考実験すらも水槽の中の脳の戯言ざれごとかもしれないってこと」

「この世の全部は脳内の作り物ってことですか?」

「哲学っていうのはね、人の心をちょっとだけ休めるためだけの取るに足らない話なんだよ。宗教だってそうでしょ? 少しでも生きやすくなるために神という存在を信じて生きるという苦痛を甘んじて受け入れている。結果なんかは重要じゃなくて考えている過程で心が休まっていることが大事なんだよ」


 征彰は口をつぐむ。

 答えが出ないのが哲学の正しい在り方だと言っているようだ。

 そんな自分たちですら何か不確定な存在であるかのような。まるで、何かを軽んじているような口ぶり。


「それで、本当に心は休まってるんですかね」


 郁人は少しだけ驚いたような顔をして、征彰の顔を見つめた。


「……哲学的だね。俺が思う一番の心の点滴てんてきは、好きなことをすることだよ。世の真理を問い詰めるよりもね」


 だから、と言って郁人は立ち上がった。しわの寄ったジャケットを整えて鞄をいつもと同じ仕草でかつぐ。


「だから生きる上で好きなことをするっていうのはとても重要。あ、カレー楽しみだなー」

「好きなものを食べるのも好きなこと、ですからね」

「そうそう」


 うっすらと口角を上げる郁人のほお湿布しっぷが、薄暗がりのせいで陰になって見える。頬の痛みなんてさも感じていなさそうで、傷つけられているというだけの証明の記号になっているとしか思えない。

 人の本質はどこにある。

 もし、一目惚れした郁人と目の前の人物が同じ人間ではなかったら。本質はどこに。

 見た目ではなく、中身? 経験? 概念? 存在?


 難しい話はよく分からない。

 でも、郁人は言った。

 これを考えるのはただの気休めだと。

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