26 瓦解(1)

四月二十七日 土曜日


鍋島なべしま


 夜八時。

 日も長くなってきて、まだ真っ暗とは言い難い時間。しかしその時刻までわざわざ残って仕事をしているのは職務しょくむ熱心なのだと思う。

 征彰まさあきは名前を呼ぶその声に振り向いた。


「大場先生」


 場所は体育館の目の前、大場の足の向きからして裏の方から歩いてきたらしい。おそらく匂いからして、校内唯一の喫煙所きつえんじょで一服していたのだろう。

「おっさんっぽいおっさん」という生徒らからのイメージ通り、大場はそれらしい行動を踏襲とうしゅうしている。

 征彰は大場に対して、高校の教師とは大変なんだなとしか思わなかったが、一部からはどうやらかなり嫌厭けんえんされている。それもそう、たまによれたシャツで教壇きょうだんに立ち、さえない顔と口調で授業をするのだ。人によってはあまりいい印象を抱かない。

 そしてまた、この教師の完璧な状態を征彰もまだ目にしたことが無い。

 いつも通りくまのある顔を認めて、征彰はねぎらいの言葉を掛けた。


「お疲れ様です」

「運動部ってのは大変だな」

「昔からずっとこうなので、大変だと思ったことはないんですけど」

「そうか。遅い時間に悪いが、ちょっと話しておきたいことがあるんだ」


 今時間は、と聞かれ、征彰は素直に空いていると伝えた。そもそも徒歩通学なので、時間に不都合なことはほぼない。


「安達の話だ」


 征彰は身構える。大場が生徒会の顧問こもんだということは知っている。


「最近安達と一緒にいるところをよく見かけるな」

「はい」

「迷惑じゃないか」


 どうしてその質問を大場がする必要があるのだろうと思うが、征彰は首を横に振った。


「いえ。どうしてですか?」

「家庭環境の話とかだな」


 大場は校門を照らすグラウンドの強い光に目を向ける。野球部は片付けの真っ最中だった。


「よく怪我をして登校してくるだろう。でも、安達はそれをひた隠しにしてる。俺にとっちゃどうでもいい信念だが、安達には守るべき人生のルールみたいなものがあるんだろう」

「信念は誰にでもあるものじゃないんですか」

「……それは自分の身を傷ついたとしても、か? あいつは何を気負ってるのか知らないが……あるいは贖罪しょくざい、ただの自己満足かもしれないが、身をけずって他人に投資する。自分に直接的な見返りがなくてもな」


 征彰は一つ治っては一つ増える怪我を思い出す。


「俺はそれをいいと思っていない。鍋島、わかるよな?」


 大場は街灯に照らされたそんな征彰の顔を見た。半分ほどかげっていて、感情は読み取りづらい。


 真面目なところは似ているようで、二人は真反対だ。郁人は選択や思考が合理的だが、妙な信念のせいで理屈を飛ばして行動に移す。それを合理的に進めようと無理に操作しようとするから首を絞めている。

 それで言うと征彰は感情にまっすぐだ。こう思ったらこうする、と決まっているため嫌だと思ったら手を引く。だから部活にはバカ真面目で、座学になれば授業中に落書きを始めたりするのだ。

 征彰は大場の回りくどい会話を、面倒くさいと思っていないようだった。授業中に爆睡ばくすいする生徒が増えると定評のある大場の話を、真面目に頷いて聞いていた。それはノートに一ページも板書を写すことがなかったとしても。きっと少なくとも聞くべきだろうと判断しているからだ。


 大場はちらほらと灯りがついている校舎の方へ視線を向けた。


唐突とうとつな話だが。例えば、自分が記憶喪失きおくそうしつだったらどうする。数年分、自分の知らない空白の期間があったら、どうする」

「……もしかして安達先輩の話ですか?」

「ああ、そうだ。単刀直入に言うと、安達は中学一、二年の多くの記憶がない」


 大場は手の中の分厚い紙束かみたばを征彰に差し出した。


「このままだと安達は暴走しかねない。止めるのには確実に……鍋島、お前の力が必要だ」


 A5サイズの冊子の表紙には『超機密事項ちょうきみつじこう』と大きく記載きさいされている。自分は機密事項を読んでいい人間だろうか。

 両手で受け取って、厚みを指でなぞる。


「俺が読んでいいんですか」

「もちろんだ。すべて理解できなくてもいいが、一通り目を通しておいて欲しい」


 大場はどこかやるせなさそうな落ちた声色で告げた。冊子の重みに責任をひしひしと感じながら、征彰はぎこちなく頷いた。

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