25 回顧(14)

四月二十三日 火曜日


「や、昨日逃げた人」


 瑛史郎は四時間目の授業が終わるなり後ろの席に座る征彰に目をやる。征彰はバツが悪そうに側頭部をいた。


「だから昨日は悪かったって。何か買っていこうかとは思ったけど、何がいいのかもわかんねえし」

「おっ、やったら次のライブついて来てや」

「は、また? そんなのでいいのかよ」

「やっぱ一人でライブ行くんは気まずいんよー」

「それは握手あくしゅかいで握手しないお前が悪いんだろ」

「いや、それはごもっともやねんけどな」


 握手会に握手をしないのは後方彼氏面こうほうかれしづらのような片鱗へんりんがある。以前瑛史郎がネットの友人にそう言われていたのを思い出す。いわゆる、イタイやつ、ということだ。

 瑛史郎の場合、どちらかと言えば雲の上の存在なので触れることなどできない、といった心理に近い気もするが本当の答えは本人しか知らない。そして、いつも何とか言ってはぐらかして握手を逃している。


 そんな二人が会話する中に一人、異色が現れた。行儀よく両手を前で組んで、優等生らしく柔らかい笑みを浮かべている。


「お話し中悪いんだけど。その……」


 話しかけてきたクラスメイトのみね紗矢さやは遠慮がちに教室の扉の方に目を向けた。

 あの日から彼女のポニーテールはハーフアップに変わっている。失恋をしたら髪を切る、と同義どうぎの行為なのか、それともあのポニーテールが自信の表れだったのか。


「俺?」


 征彰が自分に向けて指をさすと、紗矢はこくこくと頷いた。


「悪い。ありがとな」


 征彰が席を立ち扉へ歩いてゆくが、紗矢はそこから動かない。手を組んでは綺麗に整えられた楕円だえんの爪の撫でている。

 瑛史郎は何気なさそうに首を傾げた。


「どしたん?」

「ねえ、安達先輩と鍋島くんって仲いいよね」


 瑛史郎は征彰の尋ね人が郁人だったのだと知った。あの人もよく自分が振った相手に話しかけられるものだ。


「そうなんかなあ。しらんけど、おれも仲ええで」

「それは生徒会でしょ?」

「せやな。うーん、俺、峯さんが何言いたいんか、わからんねんけど」


 紗矢は扉の向こうに消えた二人を負うように視線をずらす。言うのを躊躇っているようで、察せと言う視線を瑛史郎は無視した。紗矢は諦めて口にする。


「二人って……そういうことなのかなって思って」

「いやー何でおれに聞くん。さすがのおれでもわからんかなぁ」

「そ……そっか。ごめんね、変なこと聞いちゃって。日曜日、二人で出かけてるの見ちゃって、それだけで決めつけるのは良くないよね」


 紗矢は曖昧あいまいな苦笑いを浮かべた。瑛史郎の強情ごうじょうさにひびれを切らした紗矢はだまったまま背を向ける。背中が不満を物語っているが知らないふりをした。


「……」


 男二人で遊びに行くのは珍しいことではない。瑛史郎だって『ポップエナジー』のライブがある度に布教すべく征彰を連れ回している。

 が。

 郁人が紗矢を振った矢先の休日だと瑛史郎は思い出す。

 気分が沈んでいる時にそんな姿を見てしまってはたとえそうでなくても、気持ちに整理をつけるため少し無茶な正当性をつけてしまうんじゃないか。

 うなだれるように机に突っ伏して、黒板に書かれた日付をじっとにらむ。


「中学んときと同じようなことにならんとええんやけどなぁ」


 瑛史郎は友人を心配する気持ちで、物鬱ものうげにこぼした。




 郁人は征彰を振り返ることなくすたすたと歩いていく。

 昇降口しょうこうぐちに着けば躊躇ためらいなく一番上の階まで上って、その先は屋上のはずだが、郁人は少しだけ乱暴にドアノブをひねって開放した。吹き込む風を浴びながら屋上のコンクリートを踏みしめる。


 春というにはかなり陽気で、むしろ少しだけ暑い。


「生徒会の特権とっけんだよ。勝手に屋上が使えるのは」


 征彰は初めて学校の屋上というところにやって来た。思った以上に見晴らしがいい。

 フェンスに手をかけた郁人もまた、じっと鍵島の街並みを見下ろしている。風稜の校門から伸びる道の先に鍵島駅が位置している。


「うちのカレーもね、昔はすごく具材が小さく煮込まれたので、どろどろだった」

「……カレーの話ですか?」

「三年前くらい、父さんが急にカレーは嫌いだって言った。せめて具の大きいのがいいって。十年以上も黙って食べてたくせに、急に言い出したんだよね」


 征彰の質問には答えられることなく、郁人は話を続ける。


「気が変わったんだって。その日からカレーが夕飯出たことはない」


 フェンスに指をひっかける。かしゃん、と小さな金属音は風にかき消された。


「鍋島くん言ってたよね。君お得意のカレーはどろどろに煮込むんだって」


 郁人はゆっくりと振り返る。

 その右頬みぎほおには赤いあとが残っていた。あごのあたりも黄色く変色している。

 優との会話を思い出して、征彰は思わず声を上げかけた。しかし郁人は気づいたように笑う。ひど誤魔化ごまかし笑いだ。


「ああ、これ? 気にしないで。ちょっとぶつけただけ。打ち所が悪かったのか顎は青くなりそうだけど」

「違いますよね」

「違うって何?」

「それ、ぶつけたんじゃなくて、殴られたんですよね。この前のおでこの絆創膏も多分同じ」


 郁人からふっと力が抜けるみたいに笑みが抜け落ちる。表情の筋肉が機能を止めてしまったみたいにぴたりと動かなくなった。

 征彰はそっと距離を詰めて郁人の左手首を掴む。けれど大した抵抗もしないで静かに顔をらしているだけだった。

 手の平、親指の付け根の辺りには明らかに何らかの怪我の痕だろうと分かる赤い痕。怪我は治っているようだが確実に過去の傷を示したようにそこにある。


「これがはさみで突き刺されたとこですか?」

「……俺のせいだよ」

「違う、違います。これは確かにやられたんですよね」

「だから、元を正せば俺のせいなんだよ」


 語気の強まった郁人の眉根が寄る。上手く言葉が出てこないのか、口が空を吐き出している。


「俺が、俺が馬鹿だから。早く解放されたいくせに、家族の体裁ていさいのためにかばったりしてるから。勝手に逃げればいいのにみじめにも首振くびふり人形になってるから、……悪いんだよ」


 征彰が掴んでいた左腕がするりと手から抜け落ちた。深呼吸をして、それはまるで今から息を止める予兆のように。


「……得意なんだよね」


 すっと顔を上げた郁人はさっぱりさっきまでの出来事を忘れているかのようにふるまった。表情のささやかな郁人が顔に笑みをたたえて立っている。無理に作ったな笑顔が征彰には痛ましく見える。でも皮肉か、今までで一番上手な作り笑いだった。


「俺のために、カレー作ってくれない? そしたらさ」


 郁人は手を後ろに回して見えないようにした。後ろで組まれた手に力が込められる。眉がゆがんでいることには気づいていない。


「そしたら、お付き合いしてあげようかなって思うんだけど」


 表情に硬さがこもったまま、口をあまり動かさずにそれは告げられた。

 一つお願いをするのに、何かを差し出しているのか。それとももう限界で、これは助け舟を乞うサインなのか。

 少なくともこころよい返事でないことは確かだ。けれど向こうから伸ばされた手を、ける選択肢なんてものはない。

 頬の痕に目を奪われていたが、郁人の目の下にあるくまにやっと気づくことができた。

 それは休まらない精神と長期の緊張から来るものなのだと理解させられた。

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