21 回顧(10)

四月二十一日 日曜日


 政令指定都市に定められた大都市。郁人が本来通うはずだった、父親が郁人が通うことを強く志望していた白明学院はくめいがくいん高校がある街だ。


 上階に映画館が併設へいせつされた駅ビルの一階。まさに改札口の前が待ち合わせ場所だった。人並みは大きく流れていく。郁人と同じように待ち合わせする人や、慌ただしく早足で通り抜けていく人もいる。


 交換済みのメッセージアプリの連絡欄れんらくらんには、チケットを予約済みだということ、あと五分もせずに着くことが知らされていた。


「おはようございます」


 携帯から目を離すと、少しだけ息が上がった様子の征彰が携帯片手に立っていた。


「おはよう……と言っても、もう昼過ぎだね」

「すいません、待ちましたよね」

「急がなくてもよかったのに。俺が早く着きすぎちゃっただけで、遅れてはいないんだし」

「先輩を待たせるのは」

「ほら、その話はもういいからさ。行こう」


 部活意識が抜けないのだろう。上下関係をおろそかにしないのはスポーツ界で重要なのだろうが、郁人には関係ない。強引に手首を掴むと、征彰は少しだけ困った顔をする。


「あの、手……」

「痛い?」

「いやそうじゃないんですけど」

「人多いし、はぐれたら困るでしょ?」


 何気ない郁人の主張に征彰は口を泳がせて、曖昧あいまいに肯定した。




 ポップコーンの味。キャラメルにするか、塩にするか。それが問題だ。しかし解決策はあった。例えばこの映画館限定味を頼むとか。

 カレー味かわさビーフ味。やっぱり問題だ。


──俺はどちらかと言えばカレーかな。わさビーフも気になるけど

──カレー好きなんですか?


 カレーが得意だと豪語ごうごしていただけ、征彰は家で頻繁ひんぱんに料理をするらしい。家族が家にいる時間は一般家庭に比べると劇的に少なく、そんなうちに料理をある程度習得していたのだという。


──そう言えばカレーが得意って言ってたね

──多分あれがカレーなら得意です

──カレーに多分とかある?

──うちのカレーは具材を細かく刻んでがっつりどろどろに煮込むんですけど、それはカレーじゃないって怒られたことがあって。それはスープだとかなんとか

──なにそれ。カレーはカレーなのにね。カレーに定義なんか求めてたらキリないしさ


 インドでは香辛料を用いた煮込み料理はすべてカレーだという話もある。もはやなんでもありだ。

 次映画を見る時にはわさビーフ味にしよう、と決められたカレー味のポップコーンをつまんで、ちょっとおかしな話をする。

 数十分前のことをふと思い出して、映画のじわじわとした恐怖感にも慣れてきた頃だった。

 画面に意識を戻しながらどこかで別のことを考え始めている。


 例えば、ホラー映画、と一括りに言っても細かく好みなどはわかれるものだと思う。

 和製ホラーの良さと言えば、絶対に逃げられないと分かっている概念的な恐怖だったり、むやみやたらと脅かしてこないところとか、じめじめとした不愉快さを覚えさせるような雰囲気づくり。たまには未知の存在に怯えるでなく、本当に怖いのは人間なのだ……といったオチの作品が多いのも特徴だろう。


「……」


 がた、と隣の席の人影が揺れる。

 映画館という空間の特性上、声を上げて恐怖を発散できないというのはより緊張感を与えるものだ。

 郁人は映画自体かなり好きなはずだが、意見を共有したがる性格上上映中の私語がつつしまれる空間は少し苦痛なものだった。だからか、すぐに集中力が切れる。


 場面転換でふと館内が明るくなったタイミングで隣の顔をうかがう。

 征彰は眉をひそめて少し口を開けたまま見入っている。場面転換の度にびっくりしたように肩を揺らしているのがおかしくて仕方なかった。

 そっちから誘ってきたくせに。腕っぷしで勝負の成り立たない相手にはとことん弱いのかもしれない。


 場面は変わって暗い廊下。その奥に自分たちと同じ年合いに見える少女がゆらりと立っている。

 映画館内の空気が一気に張り詰めていく。ジャンプスケアと来るのか、まだらされるのか。会場内の全員が震えながら未知の存在にくぎ付けになっていた。


──はなベア……って?

──生徒会室の鍵についてましたよね? てっきり好きなのかと思ったんですけど


 頭に桜の木を咲かせている悪趣味なクマのマスコットについて、征彰はそう言っていた。やはり鍵島のご当地キャラクターらしい。

 鍵島かぎしま出身の女優花房はなぶささくらがデザインしたものらしい。郁人が持っているのを見てふと映画を思い出したのだという。


 颯人がメロメロだとか言っていた可愛らしい容貌ようぼうの彼女は跡形あとかたもなく、目を見開きその黒い瞳で怨念おんねんをにじませながら圧倒的な気迫きはくで主人公の首に掴みかかっている。ビジュアルだけでなく立派な演技派としても名をせているらしい彼女の演技をきちんと見たのは初めてかもしれない。

 主人公はぐったりと意識を失っていく。

 暗転して、すぐに主人公は目を覚ます。今までのは夢だったのか。汗だくの体を起こした主人公はふらついた足取りで洗面台に手を付き鏡の中の自分に顔を合わせる。

 そしてそこにあったのは首にくっきりとついた手形と、鏡の向こうには──。


「……」


 征彰は映画館の明かりがついて少ししてからも、小さく息を吐いていた。席を立って空になったポップコーンのバケツを返却しても、まだ心臓が早鐘はやがねを打っているのか胸元をさすっている。


「途中で逃げ出すかと思ったけど」

「そんなかっこ悪いとこ見せれるわけないじゃないですか」


 血の気の引いた顔をして随分ずいぶん怖かったのだと思う。


「そういう先輩はかなり余裕そうですね」

「うん。途中からびくびくしてる鍋島くん、面白かったよ」

「映画見てくださいよ」

「見てたよ。この映画、花房さくらが主演じゃないんだね」


 ネタバレを踏まないように見るのを控えていたパンフレットを開く。

 主演のページを飛ばし出演の欄の一番上で花房さくらが華やかな笑みを浮かべて写っている。先ほどの恐ろしい表情とは打って変わって違う。演出とメイクだけであの幽霊になってしまうのはすごい技術だ。


「また、一緒に映画見に来ませんか」


 征彰はパンフレットなどに目をくれていなかった。じっと見下ろされていたのだと思うとつむじを隠したくなるが、郁人は黙ってパンプレットを閉じる。


「友達と行きなよ。まさかクラスで一人ぼっちなんてことはないでしょ?」

「もちろん友達くらいいますよ。片手で数えられる程ですけど。でも俺は、安達先輩とがいいです」

口説くどいてるの? からかってるならよくないよ」

「からかってないです」


 冗談で逃れようとした言葉をしっかりと掴まれる。郁人は次の言葉を見失ってしまう。

 あれ、この流れあまり良くないな。郁人は視線をそっと外した。


「覚えてないと思います。でも俺はずっと忘れられなかった。昔、病院で初めて会った日から」


 やはりそうだったのだ。

 征彰とは出会った過去があるらしい。申し訳ないが、郁人にはその記憶がない。もし解離性健忘症かいりせいけんぼうしょうが治ったとしても同じ道をたどっているかは定かじゃない。


「そんなこと言われても……」

「だから一から関係を構築しようと考えました。ちょっと早とちりが過ぎたかも、とも思いますけど」


 続きの言葉を聞いてしまうと郁人はもはや征彰から逃れられない。自分から切り離すのは、なぜか到底無理だった。身体のどこかを掴まれて引き留められているわけでもないのに、郁人は立ちすくんで征彰の言葉を聞いていた。


「俺は本気です」

「……」

「ずっと好きで、やっと話せた今も気持ちは変わりません」

「水曜日のが火をつけちゃったか」

「いえ、元から火はついてました」


 じりじりと導線を伝って、じっくりと燃やし続けていた。たまたまそれが加速して発火点が早くなっただけだと、征彰は言う。郁人の視線は次第に落ちていって、フロアを敷き詰めるカーペットの模様に向いていた。


「もちろんですけど、俺に強制力はありません。伝えられただけ本望とまで思っていますし」

「……忘れられないとか言ったくせに?」

「だって好きな人が嫌がるようなことは、できるだけさせたくないじゃないですか。でも気持ちを隠し続けられるほどでもないんです」


 じくじくと小指が熱を持ち始めているのに郁人は気づいていた。右手で小指をおおって、意識を遠くへ離す。痛いかもしれない。かゆいかもしれない。それすらも分からない。


「今日一日楽しかったです。もし次があるなら」

「……」

「一年C組に来てくれませんか?」


──本当に動くつもりはないから。少なくとも自分からは


 ここが分岐点ぶんきてんだ。

 自分で言った言葉を郁人は後悔し始めていた。


「……もし次があるなら」


 征彰は運動部らしい素早い丁寧な礼をして去っていく。


 きちんと、向き合う必要がある。思い出したくなくても、向こうが進み始めた時点で停滞は許されないのだ。のらりくらりと逃れ続けられるほど強くもない。


 郁人は手に持ったパンフレットを、また次開くのは先になりそうだと思った。

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