20 回顧(9)
四月十八日 木曜日
「テスト始め」
大場は教師になってから何年、何回この号令をしたか忘れていた。教卓を前に
右端の一番前。窓際の席の生徒らが春の日光に当てられて
常に学年で上位の成績を残している優等生。妙にいい姿勢がそれを物語っている。風稜の生徒にしては珍しく制服を着崩すようなこともしなければ、髪を染めたり巻いたりアクセサリーをつけているわけでもない。
そんな彼は別段徹夜をしたような目の下の隈もなく、目は文章を追い続けていた。
安達郁人は本来、風稜に収まって良い生徒ではないと大場は思う。確かに数名、郁人と同じように上位を占めている生徒はいるが、郁人はその生徒たちとも違って安定的な成績優秀者だった。得意科目だけ飛びぬけているわけでもなく、
大場は教卓に
成績優秀だが妙なことが一つだけある。去年一年間、廊下に張り出される定期テスト上位五名から郁人の名前が消えたためしがない、ということだ。そしてまた一位になったこともない。
郁人はテスト開始から三十分足らずですべての答案を埋めた。そしてぺらぺらと問題用紙を
それから、郁人は答えを埋めた答案用紙の一部を消しゴムで消した。
大場は疑問と納得が同時に沸き起こった。
どうしてこんなことをしているのか、という疑問。そして、二位から五位を取り続けていた偶然は必然の結果だったのだという納得。
チャイムがテストの終了を告げて生徒全員分の答案用紙を回収する。もちろん出席番号一番の安達郁人は一番上に重ねられている。
しっかりと答えの書かれた形跡のある紙のへこみ具合をそっとなぞる。黒鉛は目立たないように念入りに消しゴムがかけられていた。
「安達」
回収した答案用紙を片手に大場は郁人を呼び止めた。
「放課後、話がある」
郁人は何食わぬ顔で大場を見上げる。大場がちらりと答案用紙に目をやると郁人は諦めたように小さく息をはいた。
大場は一人分の全ての答案用紙を持って待っていた。
名前の
書いているマスには丸が、書いていないマスにはチェックマークがついている。
郁人はやっとか、と思った。何だったらもっと早くバレると思っていたのだが、一年は長かった。
「言いたいことは分かるな」
書いていないマスは黒鉛で薄く塗りつぶされており、一度書いた答案が浮き
「今、問題用紙は持ってるか」
大場の指示に郁人は鞄から大人しく紙の束を取り出した。
今日受けたテストの問題用紙だ。問題番号の隣には配点の予想、そして学年の正答率予想が書かれている。
「これは俺が各教科の先生に頼み込んで先に採点してもらった」
「そんな面倒なことしなくていいのに」
そんなぼやきにも大場は気を悪くすることなく言葉を続ける。
「ああ面倒だった。でもどういうことか聞こうと思ったんだ。俺は怒っていない。もちろんこれを見て
郁人はその全部の紙を眺めて、また満点だったのだと安堵した。クラスメイトの正答率などが狂うのは致し方ないが、郁人の答案が間違っていれば大したことだ。
「五位以下を取らないためです」
郁人は淡々と答える。
「そして、一位を取らないためです」
郁人のあの学年順位は本人によって仕組まれたものだったのだ。それが上手くいっている分恐ろしい。定期テストの度に張り出される好成績者順位表は、郁人にとってただの確認でしかなかった。
「生存リスクは誰だって負いたくないものですよね。もちろんあの人から殴られたくはないので五位以内は必然ですけど、俺は同時にできない人間じゃないといけない。出来るだけ期待を削いで、できない息子でも仕方ないって思わせないといけないんです。つまるところ、まあまあの成績を取り続けるのが高校の間の……いわばミッションです」
あの人、と
「大場先生。俺は成績上位者の生徒を
親から命を防衛する必要のある子供がいてたまるか。
「できれば黙っておいてくれませんか」
バレたのが大場でよかったと郁人は心底思っていた。これが自身の担任の平松であれば、絶妙な熱血具合で自宅に電話の一本や二本入れていただろう。そんなことをされてはどうなるのか。やはり
郁人が感情的過ぎる人を好まないのは、たまに感情だけで突っ走って落とし穴にすっぽり
大場は郁人の答案用紙をまとめて伏せた。
「……そうか」
分かったとは言わない。大場は都合のいいようにそう言った。
郁人にとって大場はかなり悪くない類の大人だった。理解もよくて、何か考えていても直接伝えてくることはない。遠回しにそう手配してくれるあたり、計算高くて優しい人だ。
しかし大場はすぐさま背を向けかけた郁人を引き留めた。
郁人は自身の左手の小指に触れていた。しきりに気になるような素振りに、大場が気づかないわけない。
「どうした。何か違和感でもあるのか」
大場は問い詰めるように尋ねる。
郁人は視線を泳がせた。それはわかりやすすぎるほどだった。郁人が嘘をあまりつかないのは、嘘が下手だからだ。
「なにも──……」
「馬鹿言え。どうしたんだ、見せろ」
大場は郁人の手首を掴んで目の前に差し出させる。
郁人の左手の小指の赤い
「
「……昨日自室で気絶して、それから深夜四時くらいに痒みに目を覚ましたんです。一応、かゆみ止めの薬を塗って、家にある
「痛みは?」
「少しだけです。ひりひりするような」
郁人はその手を引っ込めた。首を振って、口元を緩めて笑う。しかしそれはあまりに上手に笑えていなかった。笑うのも下手で嘘も下手なのだから、そんな郁人に作り笑いなんてうまくできるわけない。
「安達」
「大丈夫です。昨日頭痛と
引き留めようとする大場に郁人は首を横に振った。その表情は苦しそうで、平穏を望んでいると思えるものだ。なにか自分に言い聞かせているようにも見えて、思わず大場はその手を離す。
「失礼します」
郁人は逃げるように大場の前から去った。
大場はデスクに肘をついて額を抑えた。いつから何がどう動き始めていたのだろう。大場が目を離した隙に事が進んでいく。
一年の担任など受け持つんじゃなかった、とどうしようもないことに後悔し始める。
「死ぬのだけは勘弁してくれよ」
新卒の三島の顔を不意に思い出して、大場は顔を上げた。『保安局』から配布された職員用の携帯を取り出し、メールを打ち込めば返信は早かった。
大場はふざけた件名を読み飛ばし、本文を確認して瞠目する。
──それって、安達さんは私と同類だってことですよね?
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