17 回顧(6)
──約四年前
征彰は小学六年生だった。
当時の征彰は標準より少し成長の早いだけの小学生男児で、
始まりは長く通っていた、今でも顔を出すバレーボールクラブでの練習中。
バレーの練習中の怪我で初めて病院へ行くことになった。
「軽い打ち身ですね」
個人の診療所に連れてこられた征彰はそこの院長らしい男性の先生に一言告げられた。大した怪我ではないらしい。医者はなんでもなさそうに言っていた。
赤くなった額にはその人の手によって
「そうなんですね」
それと対照的に、なじみの深いバレーボールクラブのコーチはほっと胸をなでおろしていた。彼女は征彰の母親の後輩だという。先輩の息子を預かっているという状況からも征彰の怪我の具合は彼女を
「額以外なども痛む場合はまた来院してください。首なども痛めている可能性もありますから」
いつもであれば救急箱一つで済むことだが、ひっくり返ったのは彼女の不安をよっぽど
病院自体に来たのは、もっと幼い頃に熱で小児科を訪れた以来。
そのとき征彰は正面の、ちょうど医師の背中側にあるカーテンが密かに開いているのを見つけた。
小さな顔が
「こら、仕事中は覗くなと言っただろう」
征彰の視線の先に気づいた医師は振り向いてカーテンから覗き込む存在を
征彰は気になる存在が隠れてしまったにもかかわらず、そのカーテンをじっと見つめていた。
「お子さんですか?」
バレーボールクラブのコーチはそんな
「ええ、今年中学生になりまして、勉強のためにも診療所を解禁したんです。そしたら好きな時に覗くようになってしまって。いつもは聞き分けがいいんですけど、どうやらよっぽど診療所が気に入ったみたいで。申し訳ないです」
今年中学生、とは征彰の一つ年上だ。
「将来有望じゃないですか」
「気がつけば
そんな隣で繰り広げられる会話を
今までもクラスの子をいいな、可愛いな、と思うことは多々あった。小学校だから手をつなぐことも少なくないし、たまにドキドキしていたのはそういうことだと思う。
しかし一目見ただけで、もっと話したいとか、もっと知りたいだとか。これが本物の『好き』だという感情なのだと知った。
馬鹿みたいな話だが、あの病院付近をうろつけば、いつかは会えるだろうとあの日以来一か八かで寄り道を繰り返していた。良くないことだとは分かっていたはずなのだが。
「
「……」
「
真っ黒なリュックを背負って現れた一目惚れの人は、学ランにスラックスを
「……え?」
「この前診察に来てたよね」
頬の辺りを指さされ、促されるように手を伸ばすと湿布に当たる。あれ以降うわの空が増えて、怪我の
それよりも。
目の前の人物が自身と同性だということに驚きを隠せないでいた。てっきりショートカットの女子だとばかり思っていたのに。
「スポーツやってるんでしょ? もう怪我しないようにね」
綺麗なアーモンド形の視線を残して二階自宅の外付け階段上ってゆく。
あんなにさらさらの髪の毛で、小ぶりの鼻と口で、すらりとした猫のような
征彰は呆然とその場に立ち尽くしたまましばらくは動けなかった。
次にその姿を見たのは中学一年の冬だった。
コーチは征彰が帰りにふらふらとしていることを知っていたらしい。
その上何せ、コーチは持病によってあの医院に通っていたのだ。
「あのね、もう、行かない方がいいと思うの」
あの病院に、という言葉が抜けていても理解はできた。
「あそこの先生が言ってたんだけどね、どうやらあそこの息子さん、人が変わったみたいに診療所を嫌うようになったんだって。嫌う……というか、飽きたんじゃないかと私は思うのだけど」
だから征彰くんのこともよく思わないかもしれないわ。
コーチは征彰のことを思って言ったのだ。
しかし征彰には届かなかった。この目で確認しないと分からないのに、と妙にまっすぐな精神であの病院に向かっていた。
バレーボールクラブから病院へ向かう道の途中には大きな公園がある。
そしてあっけなくそこにいた。
見ないうちに身長もかなり伸びていて──自分も伸びていたと思ったのに──引き離されている。
そして何と言っても少し
変わらない小さな口を引き結んで、地面の砂を蹴っている。舞う砂ぼこりを眺めたまま、リズムを刻むみたいに首を小さく振っていた。
「一年前くらいからうちの近くによく来てるやついんじゃん。兄さんはさ授業終わったらすぐ帰るようになったから最近会ってないかも知んねーけど」
弟らしい人物は何ともない口調でそう切り出す。兄よりも
対して郁人は首を傾げたまま砂を蹴り続けている。
「ほら、ちょうど兄さんの一つ下くらいの。スポーツやってるとかなんとか、言ってたじゃん」
「……」
頭の上にははてなマークが浮かんでいた。それほど、思い当たらなさそうな素振りで思い出すべく斜め上を見上げていたのだ。
足を止めると、地面を足先で
「わかんないな。忘れちゃった」
郁人はきっぱりと、半分投げやりにそう言った。
征彰はそれをしっかりと聞いてしまった。
征彰にとって一年は大きなものだったけれど、彼にとっては何気ないただの景色の一部だったのだと。見えていた夢が晴れて、はっきり思い知らされた。
それでも感情は忘れていなかったらしい。
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