13 回顧(2)

「郁人」

「安達」


 優と拓実が入室したのは、郁人がちょうど入ってすぐだった。郁人は親に詰め寄られていて、へびにらまれたかえる同然だった。

 つまるところ、職員室には顔を怒りで染め上げた郁人の両親がいた。

 怒りの分配で言えば、父親が九で母親は一。母親はただついてきた、といった感じの様子だった。あるいは郁人の行動に怒っているというより、父親への態度に怒っていると言った感じ。優は直感的に、父親の権力が強すぎる家庭だ、と思った。


「教頭先生、どういうことですか?」


 拓実は落ち着いた声色で空気を切り開いていく。

 しかし教頭は首を横に振るだけだった。そして教頭は逃げるように頭を下げて部屋から出て行く。


「郁人、うそをついたんだな」


 郁人は答えない。いつもそうなのだろう。言い返すのは無意味だと知っている目をしている。


「学校のイベントには絶対に参加しない。それが入学の条件だっただろう」


 父親らしい男性は眼鏡のブリッジを押し上げて言う。冷ややかな文言だったが、拓実は首を傾げた。何のために?

 優が拓実のわきを突く。とりあえず今は言うなと。拓実は首を戻して足を引いた。


「父さんたちが気づかなかったら、のうのうと楽しんで帰ってくるつもりだったんだな」


 父親が郁人の胸ぐらを掴む。郁人はされるがままで、黙って父親の顔を見上げている。郁人にたびたび見かける体のあざはこれの延長なのだと、目の当たりにするのは理解するのと違った。


「何とか言わないか!」

「あの」


 拓実がメスを入れる。


「なんで学校行事に参加しちゃダメなんですか?」


 拓実はたまに、あえて空気を読まない。優は引き留めようとも、できるはずがなかった。拓実のその行動に救われた側だったからだ。


「誰だ、君は。部外者は何処どこかに行ってくれないか」

「自分はこの学校の生徒会長です。それから彼の先輩、です」


 拓実はひりついた空気感に飲まれることなく、自己紹介をした。


「福島拓実と言います。鍵島かぎしま出身の八月生まれです」


 突飛な発言をして意識を引く。案の定、郁人の父親は「なんだこいつは」といいだけな目をしていた。郁人の胸倉から手が離れていく。


「嘘をついたのはそりゃ、良くないことだと思いますけど。でもなんで、学校行事に参加しちゃダメなんですか? 安達……郁人くんはすごく楽しそうに準備に精を出してくれていましたよ。助かりましたし、頼りにもなりました」


 郁人は目だけを動かして拓実の方を向いた。口だけがふるえたように動いて、優にはそれが「逃げて」に見えた。あるいは「関わらないで」かもしれない。


「俺、学校行事の大切さを知らないのは損だと思うんですよね。確かに俺はめっちゃバカですけど、郁人くんは成績だってキープした上で楽しんでる。何が悪いんですか?」

「……成績をキープ? 馬鹿なことを言うんじゃない。この学校で入学試験以来一位が取れない郁人がキープできてるっていうわけないだろう。医者になるにはこの程度の成績でいいはずがない」

「へー安達、医者になりたかったんだな」


 知らなかった、という風に拓実は視線の先を郁人に向けた。郁人は小刻みに首を横に振る。


「あれ、違うみたいですけど」

「悪いけどうちは開業医でな、ぐ人間が必要なんだ。わからないようだが」

「わかりますよ。家、美容院ですし。でも、俺は継ぐ気ないです。多分俺の妹も。両親はその意図を汲んでくれて、今いる雇ってる美容師から店長を決めるって言ってましたし。そんな考えもありますよ」

「そんなに簡単な話じゃないんだよ」

「俺の話が簡単に聞こえますか? 美容師なら簡単な話になるんですか? 息子が嫌がっていることを押し通してまでして、本当に必要なことですか?」


 前触れもなく郁人が父親の腕を掴んだ。目の淵に涙が溜まっていて、何の涙か知らないが、優と拓実は一瞬そちらに目を奪われた。

 その拍子だった。身体を捻った郁人が拓実の体を突き飛ばすがごとく手を伸ばしたのは。でも、その意図は間に合わなかった。

 ぱたた、と人の少ない教員室の隅に、血が垂れる。


「拓実!」

「……いってー」


 拓実は殴られた。グーで、頬骨ほおぼねを狙うようなそれは少し逸れて鼻を殴打した。

 鼻息荒い父親の行動に青ざめた母親は逃げるように、父親の腕を強引に引いて教員室から出て行った。


「言い負かされてんじゃん。カッとなって手が出るとかさ」


 はは、と拓実は笑い声をあげた。


「拓実、鼻血……」

「いけるって、歯折れてるわけでもないしさ?」


 拓実はからっとなにも気にしない風に言った。

 郁人は呼吸を速めて目からぽろぽろと涙を流し始めた。こんなふうに感情を見せている郁人なんか初めてで、二人はぎょっとした。


「泣くことじゃねえって。オレも事情も知らずぺらぺら他人の家に口出したわけだし」

「ご、ごめん。お願いだから」

「泣くなって」

「お願いだから、このことは黙ってて、ほしいです。おねがいします」


 拓実の笑顔が固まる。隣にいた優は声こそ出なかったものの「は?」の口で固まった。

 そんな言葉が出てくるとは思わなかったのだ。


「お、お願いします。治療費はこっちがになうから、警察にだけは言わないで」

「……何言ってんの? 安達、今までお前が殴られてたんだぞ? なんであの親かばうんだよ」

「お願い、弟のためだから」

「弟?」

「弟の受験に、支障を出したくない。ほんとにわがままだけど、誰にも、誰にも言わないで」


 心からの懇願こんがんに見えた。ぼたぼたと涙が郁人の制服を濡らす。情けなさと不甲斐ふがいなさと恥ずかしさからの涙なのだと知った時、拓実も、優も何も言うことはできなかった。父親に耐えることだけが弟を守る術だったのか。

 拓実は「いいよ」とも「だめだ」とも言えなかった。何が郁人にとって一番いい選択なのかその場では決めあぐねてしまったからだ。

 でもこれだけ泣かれてしまったら、板挟みになった郁人がどうしてもかわいそうとしか思えなくて。

 二人は顔を見合わせて「わかった」としか言うしかなかった。

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