10 花信風(9)
帰宅するとすぐに手洗いを済ませ、荷物を自室に置きに行く。それから缶コーヒーの入ったビニール袋だけを持って階段を下りた。
しん、としているリビングを横断する。ダイニングテーブルに
颯人は自分がコーヒーを
「……っくりした……。ただいまくらい言ってよ」
郁人の知らぬ間に颯人は帰宅していた。颯人は頼りになり切らない兄に代わって両親の期待に応えるべく、医学部を志している。颯人こそ優等生の代名詞のような存在だと郁人は思う。
「これ、買ってきたコーヒーね」
郁人がテーブルの上に置かれたコーヒー缶の袋を指さすと、颯人は簡潔に感謝を述べてキッチンへと入っていく。
「
「違うとこのが良かった?」
「いや、気が利くなと思ってさ。……兄さん、医者じゃなくても看護師とか薬剤師とか目指そうとは思わないわけ? 医療従事者ってやつ」
「まったく」
冷蔵庫に顔を
もそもそと動く背中を見つめながら郁人は思う。
「そこの新聞」
「は?」
颯人が冷蔵庫に
冷蔵庫から顔を出した颯人の手にはフルーツ牛乳の紙パックが握られている。こちらも500mlでストローを刺す穴がついているものだ。
「あのさあ。俺、コーヒー買うためにわざわざ薬局まで引き返してあげたんだけど」
「苦いもんばっか飲んでらんねー」
ストローを取り出して紙パックに突き刺す。
颯人の左手は朝刊を指さしている。
「めっちゃ可愛いくね?」
一面に写る女優はドラッグストアのコマーシャルで見た人物だ。郁人はやっぱり似ている、と思いながら胸元の大きく空いたドレスのような服に笑顔を咲かせる彼女を見下ろした。
「
颯人は一息にそれを言った。後半郁人は聞き取ることを困難としたが、とくに聞き返すことなくスルーする。
その朝刊の見出しには目を引くフォントで『花房さくら初の映画主演』と書かれている。ドラマの主演をたくさん務めているのは知っているが、映画は初めてだったらしい。
顔をアップに張り付けられており、これだけのサイズで掲載されていても
「詳しいね。好きなの?」
「顔は」
妙に強調して颯人はそう言う。
「昔ドラマで見て一目惚れだよ。三年前かな、花房さくらが中学生の時のドラマなんだけど。目が丸くてかわいーのにちょっとエロいんだよ」
颯人はポケットからスマホを取り出して画面を郁人に見せる。画面の中の彼女は目を潤ませて、天才的なカメラの角度で接写されている。
郁人は黙ってプレゼンを聞いていた。
「号泣してるとことかさ。あんときクラスの男子全員花房さくらにメロメロだったし」
「メロメロって」
「ほんとだって。同年代で多分兄さんだけだぜ、知らなかったの」
「なんてドラマ?」
「あー……確か」
颯人が再びスマホを操作して郁人に画面を向けた。
ポップな字体で今より幼い見た目の花房さくらが囲われている。ドラマとして放送するには少しファンタジーチックすぎる気もするが。
「『まじかる☆ばなな』?」
「チープそうだって
噛みしめるような颯人の口ぶりに郁人は「はあ」としか言えなかった。
生
郁人は
「それでさ、ちょっとお願いあるんだけど」
颯人が先ほどのスマホの絵文字のようにくねくねしながら郁人に上目遣いをした。
「……なに?」
「この映画、公開が来年の春になるんだよ。でさ」
「で?」
「言い訳に兄さんを使ってもいい? 一緒に本屋に行ったとか、その辺りの理由で」
なるほど、コーヒーを買ってこさせた上にか。と
「来年ね。わかった」
颯人は目を輝かせて郁人に向かって感謝を述べる。別段、誰かを
郁人は小さな
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