9 花信風(8)

──コーヒー買ってきて


 バイブレーションに驚いて携帯の画面をつけるとそんな通知が入っていた。メールの主は郁人の弟、颯人はやとだった。

 再びスマホが震えてしぶしぶメッセージアプリを開く。


──ブラックで


 コーヒーなんてもの、ましてやブラックで飲むなんて正気じゃないと郁人は思う。あれは焦がした豆の苦汁にがじるだとしか思えないのだ。郁人は甘いもの酸っぱいもの辛いもの大抵嫌いじゃないが、苦いものだけは好まない。

 眠気覚ましとはいえブラックコーヒーを所望する弟に顔をしかめた。


──今どこ

──まだ塾。今日金持ってきてなくてさ。お願い


 颯人はどうやらコーヒーを買うだけのお金すら持ち合わせていないらしい。中学二年生でお小遣いをもらっていないわけでもないのに。


──何本?


 送られてきたにっこりと笑った変な生き物の絵文字が画面上でくねくねと踊っている。颯人のセンスが未だよく分からないが、その直後に送られてきた本数を見て郁人は瞠目どうもくした。

 そして間をおいて呆れさえする。


──500mlを五本でお願いよろしく


「寝れなくても知らないよ」


 これは立派な中毒だ。

 郁人はしぶしぶ帰り道を引き返し、ドラッグストアへ向かうことになった。




 片手にビニール袋を引っ提げて、郁人は化粧品売り場を縦断じゅうだんした。いろいろ様々な化粧品を流し見てすごい多様さだと不意に思う。これだけいろいろな種類があってよく「これだ」と絞って購入できるものだ。似合う似合わないもあるだろうに、それまでに試行した回数は計り知れないのだろうか、などと考えながら日の落ちた外を目指す。


 しかし郁人は聞き覚えのあるような女優の声に首を捻った。小さなモニターに映し出されるコマーシャルは、高校生大学生を対象にしているようなブランドのリップのものだった。郁人は思わず足を止めてそのコマーシャルに目をうばわれていた。

 画面の中の彼女は両手でほおおおって上目遣いをする。新作とうたわれた淡い色付きのリップは彼女の唇の上でつややかに主張されていた。

 郁人はその女優が別段好きというわけではなかった。そもそも、芸能人を多く知らない。


 おそらく彼女に足を止めたのは他の理由がある。

 柔らかく波打つ髪と、微笑む時に大きな目を伏せ目がちに不敵に口角を上げるところ。それから吸い込まれそうな黒目がちの瞳と、まるで描かれたかのような並行の二重瞼ふたえまぶた。雰囲気を出すために作られた声が少し低くささやきがちになるのも。


「佐倉に似てるのか」


 その思考に疑問を持つことはなく郁人は再び歩を進めて、何も考えずに暗い街並みに帰っていった。

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