8 花信風(7)

 『保安局』は鍵島かぎしま駅を通る私鉄の一つ隣の駅、千願寺せんがんじから近い場所にある。ただの社ビルのように見えるそこは地下が研究機関に、下階が職場に、そして上階が『保安局』関係者のための住居となっている。内廊下うちろうかで、それなりの広さのためホテルのようだと聞く。

 郁人は二階にある会議室という名の相談室の一室、座り心地の保証された回転いすに腰掛けていつものように待っていた。


 よくよく振り返れば、郁人はあの人たちについて何も知らない。

 響子が『保安局』の上階で一人で暮らしている理由。

 優がいつも飲んでいる奇妙な色のカプセル。『保安局』の地下で定期検査をしている理由。


 手の中の本の文章には目がすり抜けていくだけで、内容がつかめない。脳の大部分が別の考え事で占めているからだ。

 こんなふうに人について考えたのは久々の事だった。メディアや書物の論題に対してあれこれと考えをめぐらすのは珍しいことじゃないが、その対象が周囲の人物だったり自分に向いたのはいつぶりだろう。思い返すのも難しい。


「英語、お好きなんですか?」


 いつの間にか人が入って来ていたらしい。

 確か大場を待っていたはずだ。どうして見覚えのない女性が入って来ることがあるだろう。しかし彼女は郁人の心情を気にすることなく、読んでいた本を指さし尋ねてくる。

 手の中の本は英語の造形ぞうけいを深めるための新書だった。


「いいえ、嫌いです」

「あら、私もなんですよ。奇遇ですねぇ」


 妙に近い距離間で、彼女は郁人の目の前の椅子に腰を下ろした。


「あの、大場先生は」

「『先生』? ああ、大場さんって高校の教師でしたね」


 赤いフレームの眼鏡を押し上げて彼女は大仰おおぎょうに頷いて見せる。なんだか癖の強い人物だ。会話のテンポを測りかねて、郁人は言葉が途切れ途切れになるのに気づいた。


 そう。郁人の場合、初対面ではこんなふうに会話がスムーズに進むのはめったにない。いろいろなことに配慮しようとして、大抵たいてい郁人のレスポンスが遅れるからだ。


「大場先生は学校のお仕事が忙しいので、ここの仕事は五月まで他の職員に振り分けられることになったんですよ」

「じゃあ、貴方が臨時の……?」

「いいえ?」


 きっぱりとした答えに郁人ははてなマークを浮かべる。つかみどころのないその人は始終しじゅうにこにことして笑顔を絶やさない。彼女はスーツの下に着たタートルネックのえりを軽く引っ張りながら首を傾げた。


「私は──」

三島みしまさん!」

「やっと来た。白波しらなみさん」


 白波と呼ばれたもう一人の女性が会議室の扉を開ける。

 簡素な黒スーツ。かざのない化粧。明るすぎない程度に髪を染め、派手過ぎない程度にパーマを当てている。まさに公務員然としている。偏見だろうか、郁人が思う女性の公務員像をまった踏襲とうしゅうしていた。


「安達さん、ごめんなさい。彼女は新卒の職員でして、私が教育担当なのですが……」


 二十代中盤。有名私立大卒で有能だと大場が言っていた。大場の隣のデスクの職員だ。

 名前だけがすっぽりと抜け落ちているが、郁人はその人に見おぼえがあり少しだけ安堵あんどする。


「三島さん、わたし言いましたよね。会議室の前で待っておいてくださいと。どうして入っちゃうんです」

「だって座りたかったんですよ」

「それに安達さんの正面に座って……わたしがどこに座るとか考えなかったんですか?」

「今、私が移動したらいいのでは?」


 三島と呼ばれた新卒は自分が悪いとは微塵みじんも思っていなさそうに話す。白波は呆れ通り越し、驚きさえのぞかせた顔で肩を落とした。


「……わかりました。今は安達さんのほうを優先しましょう。いいですね?」


 白波は三島が退いた椅子に腰を下ろすと一息つき、郁人に向き直る。それこそ普段見るようなありきたりな表情だった。


「見苦しいところをお見せして申し訳ないです。安達さんの臨時担当になった白波しらなみ美月みつきです」


 郁人はフルネームを聞き、響子がよく「美月さん」と姉のようにしたっている人が目の前の人なのだと一致する。覚えが確かなら、響子の正面の部屋に住んでいたはずだ。


「響子ちゃん……小森さんの担当をしていることもあって、大場さんが受け持つ風稜生は私が臨時担当になりました」

「つまり佐倉もですか?」

「ええ。安達さんと佐倉さんのお二人です」

「怪我の具合は大丈夫ですか」


 郁人と白波の会話に三島は遠慮なく言葉を割り入れた。


「……えっと?」

「三島さん。今はわたしが──」

「『保安局』に目つけられてますからね、貴方のお父様。あ、目をつけるとは言っても貴方が口止めをお願いしたので警察沙汰にはなっていませんが。弟思いのいいお兄さんですねぇ」


 郁人は言葉に詰まる。

 彼女の言葉は明らかな皮肉だとわかる。


「あのね、三島さん。気になることがあるのは分かるけど、順序ってものがあるでしょう」

「いいえ。これが正しい順序ですよ」


 三島は長机に肘を付く。

 レンズの向こうの目がじっと見抜こうとしてくるような。つかみどころのない彼女に郁人は戸惑っていた。笑みは表面だけで、目が笑っていないのだ。


「たまには壊れた順序で探りを入れてみるのも、一種の正しさがあるものです。さあ、安達さんは何を話してくれるんでしょう」

「……」


 郁人がピクリと肩を揺らす。

 今日はまだ優が『保安局』に来ていないはずだ。立場的に彼女が知っているとも思えない。


「なーんて」


 三島はからっと笑って何もないと示すように手を振る。

 その一言で張り詰めた空気が一気に緩んだ。ただの直感で物を言っていたか、はったりだったわけだ。思わず郁人は背もたれに体を寄せた。


「何かあればできるだけ早く報告してくださいね? 何かあってからでは遅いので」


 三島は椅子から姿勢よく立ち上がると白波を置いて会議室を出て行く。


「え、あっ、三島さん?!」


「……三島さん、って」


 バタンと強く閉められた扉は追うなというメッセージにさえ聞こえた。

 白波は三島を引き留めるべく浮かせた体を、椅子に下ろして座り直す。


「騒がせてしまってごめんなさい」


 申し訳なさそうに眉を下げているが、郁人は気にせず言葉を続けていた。


「三島さん、って何か見える人なんですか?」

「どうしてですか?」


「……見透かされてると思ったので」


 三島が今しがた出て行った扉をつい目で追ってしまう。第一印象はすこぶる変人だが、にじみ出る有能さがある。


「あまり言うつもりはなかったんですけど──」


 優と三島に背中を押されるような形で、郁人は自身と鍋島征彰に関する違和感を自らの口で話すことにした。

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