6 花信風(5)

 四時間目の終了を告げるチャイム。

 数名の男子生徒が号令がかかるのをそわそわと待っている。

 郁人は左手をポケットに入れ小銭の数を数えた。百円玉が五枚。

 教師はチャイムから二分少し授業を延長して、教壇に積まれた教師用のテキストを抱え上げやっと号令の合図をかけた。


「ありがとうございました」


 そう言い終わらないうちに数名の生徒は教室を飛び出していく。

 風稜学園名物。購買部戦争。誰が名付けたのかは知らないが、リーズナブルな上にボリュームのある学食及び購買部のパンやお弁当は人気度が高く競争が絶えない。

 郁人ははなから戦うつもりはなく、そもそも戦わずとも購買部は量という点において充実している。食べるものがなくなるという心配はまずない。自分の食べたいものが競争率の高いものである人だけが、競争のうずに飛び込んでいくのだ。

 郁人は食堂前の購買部のカートにできた人だかりを離れて眺めていた。

 このように激化した渦に自ら飛び込む女子生徒もいない。男子生徒だけがわらわらと群を成して、勝敗が決まっていく。


「……」


 その中に見つけたのひと際体格の小さい生徒。その人は大群から足をバタバタとのぞかせている。郁人はまれながら波に飲まれていくその人に手を伸ばし、腕を掴み引きずり出した。


 三年生を示す赤のネクタイがよれて曲がっている。その先輩は上がった息を整えながらよろよろと人の少ない壁にもたれ掛かった。カーディガンに絡まったヘッドホンのコードをちまちまと解きながら、大きなため息をついている。


「なんでまた一人で。こうなるってわかってたんじゃないの?」

「しょうがないだろ。拓実たくみが今日は剣道部の新歓しんかんの会議だって」


 昨年まで生徒会役員として働いていた生徒の一人。

 男子にも女子にも見え得る中性的な体形と端正な顔立ちに加え、恋人の要望により柔らかい質の髪を肩まで伸ばしている。ブリーチで薄い金髪にまで色を抜いた髪を団子のハーフアップにまとめ耳にいくつものピアス穴がある。首からぶら下がった優先のヘッドホンも加え、何と言うか。言葉を選ばないなら、チャラい。

 肩書と見た目のアンバランスさは誰にも引けを取らない。不良然としているが文武両道で、成績は良好らしいのがギャップというやつだ。


 佐倉さくらゆうは薄い唇を尖らせてスラックスのポケットに両手を収めた。女子がうらやむようなぱっちりとした二重ふたえまぶたの中に鎮座ちんざする黒目が郁人をじっとりとにらむ。


「郁人が行ってこいよ。その身長を無駄にするつもりかよ」

「悪いけど、無駄な争いはしたくない主義」

「ハト派が」


 尖った言葉がすらすらと出てくる。しかし郁人もまた先輩のそれに怖気おじけることもなく首を振った。

 口の悪さには優本人は自覚している上に反省もしていると言うが、やはり後者に関しては嘘だとしか思えない。

 優の手によって郁人が人の渦に押し込められそうになった辺りで、二人をなだめるがごとく挟まる声があった。郁人と優は二人して声の主に体を向けた。


「あれ、君……」

「お久しぶりです。あの後本当に無事でしたか?」


 今朝、響子が言っていたファンクラブの彼。鍋島何某なにがし

 しかし彼の両腕にどっさり積まれたパンの山があった。彼が誰かというよりも二人してそれにくぎ付けになっていると、弁明すべく渋い顔をする。


「これは部の先輩たちに……」

「パシられてんの?」


 優が初対面であろう鍋島に尋ねる。


「ちょっと佐倉」

「一応金は預かってるんですけど、そういうことになるんですかね。今から部活の会議があるんで、食いながらってことで。あ、お二人もよければどうぞ」


 この時期は新年度が始まったばかりで何かと集まりが多いらしい。鍋島はパンを抱えた山を差し出すように寄せてそう言った。

 購買部の波は引き始めているが、売られているラインナップはかなり減っている。郁人は手を伸ばしかけるのを躊躇ためらった。


「先輩のお金なんじゃないの?」

「二つくらい無くなっても気づかないですよ。札で渡されたので」

「お前、悪いな~。イケメン君やんじゃん」


 優は鍋島の見かけによらない不真面目らしい行動ににやにやと笑いながら、山の一番上に鎮座していたメロンパンを手に取った。郁人も知らない誰かに感謝をしながら一つ頂くことにする。


「それで、怪我は」

「うん。大丈夫、本当に心配に及ばないから」

「でもそのおでこの絆創膏」


 鍋島は郁人の前髪に隠れた絆創膏ばんそうこうを指さす。ちょうど左眉の上に貼られた正方形の絆創膏だ。郁人は反射的に隠すように手で抑えた。


「これは……家で壁にぶつかってできた傷だよ。絆創膏を貼るほどじゃないんだけど前髪が触れて痛かったから」

「ま、怪我してても郁人なら家にいっぱい薬あるだろうしな」

「そうなんですか?」


 優は郁人の顔を見上げた。今まで郁人の怪我に気づかなかったらしい。まただ、と言いたげだが郁人は気づかない振りをする。


「うちの一階が病院なんだ。小さな個人院だけど」

「もしかして平萩ひらはぎにある整形外科ですか? たしか……安達整形外科内科医院あだちせいけいげかないかいいん、って名前の」

「そうだけど……来たことあるの?」


 名乗っただろうか。入学式の挨拶で名前を憶えてくれたのだろうか。

 しかしよくフルネームを覚えているものだと思う。安達整形外科内科医院は個人院でなおかつ自宅の一階なので、病院というよりは診療所しんりょうじょである。父の代から開業した医院なので、さしたる知名度はないと思っていたが。


「俺が小学六年の時にしばらく通ってたことがあったんですよ」

「小六……」


 郁人は誰にも聞こえないほどの声でつぶやく。

 バレーボールをやっている人が整形外科を訪れることは少ない話ではない。しかしその場合、年齢的に郁人は鍋島に会っていないことになるのだ。少なくとも病院関係では。


 郁人が前にいた世界では、父は医師ではなく一般的なサラリーマンだった。一階もただのガレージで白のバンが駐まっていた。だから病院を介するには少なくとも郁人がこちらの世界に来てからでないとつじつまが合わない。

 けれどもし記憶が食い違っているなら、抜け落ちた中学一年生時の記憶に彼がいないとも限らない。


「……今はもうその怪我は治ったの?」

「完治、とまでは言わないんですけど。あの後からはどの怪我も大きな病院でてもらうことになって、それからは何かあればそっちに通うことになったので」

「そっか。それがいいよ」


 プロをこころざすくらいなら、いろんな設備の整った病院の方がいいだろう。

 鍋島はおもむろに食堂前の掛け時計を見上げる。そして少しだけ焦った顔をした。


「すんません。会議の時間迫ってるんで、これで」

「うん。パン、ありがとうね。えっと……」

鍋島征彰なべしままさあきです。それでは


 大量のパンを抱えたまま器用に人込みを分けて廊下の奥に消えていく。

 しばらく黙って聞いていた優が郁人の脇を突いたのは、完全に見えなくなった征彰の影を見送ってしばらくだった。

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