5 花信風(4)

四月十五日 月曜日


「速報」


 郁人は声の方に顔を向けた。


「……でもないけど」

「おはよう」

「おはよう。そして久しぶり。去年ぶりね」

「去年度って言うなら間違ってはないけど、実は一か月も経ってないからね」

「そんなことどうでもいいの。それよりも、速報じゃない速報」

「どうぞ」


 郁人は上履うわばきに履き替えて自分のクラスへと歩き出す。始業式から一週間も経ってしまえば、新しい教室は多少慣れた。去年の教室に間違えて向かってしまわないように気を張ることも少なくなっている。ただ席から見える光景にバグを感じる程度。


 小森響子は朝から綺麗に巻いた髪を慌てたように揺らしながら、郁人の後ろをついて歩いた。

 緩めた郁人と同じ色のネクタイに、白いブラウスに似合う濃い緑色のスウェット。もちろんスカートはぎりぎりまでたくし上げている。生徒会という共通点が無ければ関わらない類の人間の容姿をしていた。


 さて、速報じゃない速報とは。


「ねえ、一年の鍋島くんって知ってる?」

「……」

「大場先生のクラスのね、注目の彼。その彼のファンクラブができたんですって」

「ご苦労さま」

「まだ入学して一週間よ。ファンの子が部活に押し寄せて歓声をあげてるって話、あったでしょ?」

「邪魔にならないならいいんじゃない?」

「それが原因でファンクラブができたのよ」

「『それ』って、部活に押し寄せてる子たちが集まって会を開いてるってこと?」

「違うわ」

「なら、部活のマネージャーが統率を取ってるの?」


 響子は首を横に振る。


 わけが分からない。ファンを名乗って目を輝かせている人たちが集っているのなら理解できるが、部活に押し寄せているということは言い方からしていい方向ではないはず。マネージャーがファンの子たちの欲求を所有という形で収めようという魂胆こんたんで設立したと考えれば、随分ずいぶん頭の回る設立者だと思ったのだが。


「黄色い声あげてる一年生に、三年生が牽制けんせいするため」

「牽制?」


 郁人は振り返る。


「一年が調子乗らないように、っていう警告」


 響子は長いまつげに覆われた三白眼を細めて意味深に眉を寄せた。さながら海外ドラマの演者だ。


 郁人は彼女の情報に何も言わないでおいた。何年生になっても、牽制などという意味があるのかよくわからない行動をする人はいる。高校生の醍醐味だいごみでもあるのかもしれないと思うことにする。


「安達くんの考えてることは分かるわ。『くっだらねー』……でしょ? それに関しては私も同意。ほんとくだらない」


 明らかに言い方に悪意を感じる。


「でもね、牽制はバカバカしいけど……集う気持ちは分からないでもないわ。一回見たら仰天するもの。それこそ安達くんに引けを取らない……」


 響子はそこで言葉を切った。郁人が自身の容姿について何とも発言しているところを聞いたことがない。それがどういう意図なのか、もしや容姿について言及されるのを嬉しいと思っていないかもしれない。と、心配が脳内を駆け巡ったからだ。

 しかし郁人は特段反応は見せずに済ました顔で流し聞いていた。


「……とにかく、とんでもなくかっこいいの。悪い意味じゃないけど、どちらかと言えば演技派俳優に区分されそうな感じで」

「確かに今年のミスターコンは彼の優勝だって言ってもおかしくなさそうだしね」


 郁人のさりげない発言に響子は沈黙ちんもくに落ちる。ぱちぱちと瞬きをして口が無防備むぼうびに半開きになった。


「ちょっと待って。貴方、鍋島くんのこと知ってるの?」

「入学式の日にぶつかったんだよね。その時持ってた資料に鍋島ってあったから多分、彼」

「ちょっと。将来有望に怪我なんてタブーじゃない」

「大丈夫だよ。彼の体幹が強すぎて俺がよろけたくらいだし」

「まあ、当たり前ね。貴方運動音痴うんどうおんちだもの」


 響子は当然だと首を縦に振る。たびたび響子は郁人の運動神経の悪さ、どちらかと言えば球技の下手さについて話を引っ張り出す。なんと言っても球技の授業でボールを顔面で受け止めた回数は少なくない。郁人が鼻血を出すたびに「ボールが勝手にぶつかって来た」と言ううちに、響子の中で郁人=運動音痴という方程式が成り立つようになってしまった。


「……あら?」


 響子がふいに立ち止まる。声が遠ざかり、郁人も反射的に歩みを止めた。


「安達くん、今自分で言ったことに気づいた?」

「何の話?」


 飛躍ひやくした会話に郁人は聞き返す。しかし響子は打って変わって目を丸くしながら饒舌じょうぜつになった。


「私が鍋島くんの名前を出して、どうしてすぐに入学式の日にぶつかった人だってわかったのよ」

「だから、鍋島くんが手に名前が書いてある冊子を持ってたからだよ」

「そうじゃなくて。貴方って人の名前覚えるの苦手じゃない。私の名前を覚えるのに二か月かかったくらいには」


 うらぶしの含まれた的確な意見を受け止め、郁人はあの日の違和感を思い出す。謎の既視感について、出来るだけ忘れていたかったけど。


「どうしてすぐに思い出せたの? 少なくとも今覚えてる人の名前って、生徒会関係の人達と……誇張こちょうなしにそれくらいじゃない」

「やっぱりおかしいか……」


 郁人はあごに手を当てて窓の外に目を向けた。


「やっぱりって」

「俺、こっちに来る前に彼に会ってると思う?」

「そんなこと知らないわよ。貴方が知らないこと私が知ってるわけないじゃない」


 どこか他人事ひとごとらしい口調に響子は戸惑とまどい、表情をくもらせた。郁人の態度に不安感を覚えたからだ。比較的機械的な郁人が、今は妙に人間らしい。自分について悩みあぐねている。


「変に動かないでよ? たまに突拍子もないような事言い出したりするし、怖いのよ。ましてや──」

「わかってるよ。しばらくは大人しくしているつもり」


 気づけば二人は二年の教室が並ぶ廊下にやって来ていた。響子は自身のF組のプレートが吊るされた教室の前で立ち止まる。


「ひとまず『保安局』に報告すべきだとは言っておくわ。何かあってから私が詰められたらたまったもんじゃないし」

「忠告ありがとう。でも、本当に動くつもりはないから。少なくとも自分からは」


 響子は不安げな素振りで教室の引き戸を引く。それを見届けて郁人は自教室であるA組へと向かった。

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