4 花信風(3)

──お前はいわば超能力者だ


 ちょうど一年前。郁人が風稜学園高校に入学したその日、大場に呼び出されるなりそう言われたことは今でも覚えている。

 服装検査には爪をチェックする項目がある。比較的規則の緩い風稜高校で校則違反となるのはネイルと過度な装飾と完全私服登校のみ。大場は面倒な服装検査を任された一人だった。

 教師を前に手の甲を差し出す。郁人が何も言わない大場に背を向けようとしたとき、大場は慌てて引き留めた。

 爪はまめに切りそろえていた。その日も前日に爪切りを使用していたのだ。もちろん真面目な郁人だから校則に触れるネイルなどもしていない。視界の端では爪切りを渡され、ネイルのために伸ばしたと思われる爪を泣く泣く切る女子生徒が騒いでいた。

 どうして自分が?

 しかし大場は郁人の爪などに興味はなさそうだった。左手首を掴んだまま、じっと観察されるのはその小指。

 郁人は大場の顔色を窺った。

 郁人の左手小指にはちょうどピンキーリングの跡のような赤い痣がある。これは郁人が中学二年の冬からあるものだ。ちょうど人の名前が覚えられなくなったころ。周囲の様子や郁人のしる常識が変わったころ。


「別に指を詰めたわけじゃないですよ」


 念のため冗談交じりに郁人が断ると、大場は顔を歪め、

「放課後、教員室に来るように」

 と言った。

 そして言われた通り教員室を訪ねた郁人は、大場に連れられるまま屋上にやって来た。

 春一番がフェンスを抜けて吹き込む。

 郁人はフェンスの網に手をかけて校門を見下ろした。思ったよりも高くはない。屋上なんて場所ははじめてだったが、期待以下だった。これなら景色を知らない方が夢があったというもの。

 背を向けている郁人に向かって、大場はおもむろに口を開いた。


「お前はいわば超能力者だ」


 郁人は振り向きながら顔をしかめる。大場は郁人の表情を見て、宥めるように両てのひらを見せてきた。


「ちょっと待て。信じられないかもしれないが、とにかく最後まで話を聞いてくれ」


 郁人は首からぶら下がっているパスケースの名前を一瞥して口を開く。社会科教師、大場才輔。

 郁人は思った。こんな変な教師が高校には数多といるのだろうか。この人に何かを教わるのは少し不安だ。

 ただ話を聞かずに去るのも失礼かと思い直す。


「わかりました」


 大場はなんとかとどまってくれた郁人に安堵の息を吐いて仕切り直した。


「この世界はすべて素粒子由来だ」


 物理教師か化学教師と話せばいいのではないか、など言いたいことは湧いて出るが郁人は黙って次の言葉を待つ。


「素粒子同士っていうのは接触してあらゆる反応を起こすだろう」


 大場はジャケットの内ポケットからタバコの箱を取り出すと、一本白い棒状のものを出して郁人にかざして見せる。郁人は身近に喫煙者がいないため、それをここまで間近に見たのは初めてだった。


「何らかの影響によって作用する。それは当たり前のことだ」


 大場は一本のタバコを短い二本にちぎって分けた。


「今これは俺が端と端を掴んで引っ張ったから千切れた」


 郁人は流されるまま頷く。


「でもな、この世には不思議なことに何もしていないのに千切れることがある。はたまた二つのものがくっついたり、別のものに変わっていたり、増えたり消えたり」

「マジックの話ですか?」

「いいや」


 大場は葉が漏れてぐちゃぐちゃになってしまったタバコを、スラックスのポケットに押し込んだ。


「現実の話だ。そして安達、お前自身の話だよ」


 郁人は何も言わなかった。特に何も言うことが無かった。

 大場は一息を吐いて話を続ける。


「科学的には立証されていない。でも考えてみろ。『何らかの影響によって作用する』。何らかが非実体では不可能だとなぜ言い切れる」

「……。さあ、俺はあまり詳しくないので何とも」

「詳しい人でも言い切るのは難しいだろう。なぜなら起きてしまっていることだからな」


 つまり、タバコが二つに千切れる要因として、人が力を加えただとか劣化だとか、それ以外で突然分断されることがあるのだと。

 大場はかなり信じがたいことを言っていた。


「……でもそれって普通に起きることだって言えるなら、その概念が世の中にはびこっているはずですよね。急に建物が崩壊したり、人が消えたり」

「そうだな」

「こんなことが頻発していたら俺たちの常識は別のものであるべきです」

「でも違うな」


 大場は郁人の左手に視線を向けた。郁人は誘導されるように左手を掲げる。


「……『超能力者』?」

「ビンゴ」


 人差し指を郁人に突き出して大場は言った。物わかりの良さに満足している顔だ。

 郁人は自身の左手を目の前にかざしてみる。小指の赤い痕は痛くもかゆくもない。


「人の感情、それが影響を及ぼす。人の感情が伝播するようにな。非実体の例なら噂、呪い、都市伝説。いじめや暗示、洗脳もだな。浅いものなら集団心理でも、人の大きな感情の集合体と言っても過言じゃない。そして、勝手に作用してしまう。こういうのは止めようとして止められるものじゃないからな」


 春嵐が制服を、心を煽る。

 郁人は春の鍵島の街並みに目を向けて、すぐに戻した。


「左手小指のおまじない、だろう」

「……」

「青い糸を左手小指に括りつけ、眠る前に理想の世界を強く念ずる」


 ばかばかしい。郁人だって思ったはずだ。

 でもどうしてかそれを実行していたらしい。その理由は消えた記憶の中にあるのだろうか。


「すると理想の世界に訪れている。並行世界──パラレルワールドを跨ぐという形でな」


 中学二年の冬。

 郁人はいつも通りのベッドで目を覚ましたと思っていた。

 残っていたのは小指に青い糸と、それに反応したみたいにできた赤い痣。そして自分が知っているものとは違う世界。

 インターネットで調べればすぐにでもわかった。これがとあるドラマの重要要素として登場する、『左手小指のおまじない』のせいであるということは。しかし郁人はそのおまじないの存在から、行った動機までさっぱり忘れていた。同時に二年分のほとんどの記憶も。都合のいいことに、学校での記憶は健在だったから勉学に困ることはなかったが。


「……超能力者とは基本的に不可能だと思われていることを成し遂げられてしまえる人を指すだろう? しかし実際俺たちは安達のような例を超能力者とは呼んでいない」

「『俺たち』?」

「要観察対象者、または要監視対象者。俺たち、機密国家機関『物理異常保安局』はお前たちのような人間をそう呼んでいる」


 関係者らはみな『保安局』と呼ぶ。

 科学の力で証明されていないとはいえ、このような異常事象を野放しにしておくこともできない。そういうわけで秘密裏に設立されたのが『保安局』というものらしい。

風稜学園高校のある鍵島市含む周辺は、郁人が持つような特性を引き出しやすい土地、『エリア:インスタビリシティ』に登録されている。そして『エリア:インスタビリシティ』には必ず一つ支部が存在するのだと。大場が所属するのは『保安局』の鍵島地区支部。


「安達郁人。お前は今日から『保安局』の要監視対象者だ」

「つまり……大場先生は国の謎の組織に所属しているエージェントで、学校に潜む俺みたいな人間を見つけるため教師のふりをしている、ってことですか」


 大場は郁人に満悦な笑みを向け、大仰に頷いた。


「いいじゃないか、『エージェント』。かっこいいな。次からそう自己紹介しよう」


 笑顔の大場と対照的に郁人は腰を引いていた。


「俺の事拘束したりするんですか」


 痛い目には遭いたくない。妄想が過ぎるかもしれないが改造なんてもっての外だ。


「いや、そんな面倒なことはしない」


 郁人は首を傾げた。大場の手に何か握られている。


「ちょっと生徒会の仕事をしてもらうだけだ」

「生徒会、ですか?」

「なにかと見張りやすいからな」


 大場は光る小さなものを投げた。郁人は手を受け皿にして、慌ててキャッチする。

 手の中にあったのは生徒会の『生』の字が刻まれた銀のバッジだった。これをつける人物は正式に生徒会役員と認められたことになる。一年の間は学級から最低一人が選出される仕組みだったように思う。

「『保安局』はお前から世界を守ると同時に、世界から安達自身を守るための機関でもある。だからこそ言う。勝手な行動はやめてくれ」

 郁人は受け取ったバッジをポケットに滑り込ませる。


「……この世の物事はそう上手くいくものじゃない」


大場は少しだけ悔しさをにじませた表情で言った。郁人はその真剣さに息を飲む。

 大場は郁人の反応の機微を見届けて背を向けた。気だるげな足取りは空気にかき消されて、金属のこすれる音だけで屋上の重い扉は閉じる。

 一人だけの屋上に肌寒い風が吹きゆく。

  郁人は再び鍵島を見下ろした。


「……『要監視対象者』、か」


  自身の小指をぐるりと一周する赤い痣にため息を吐く。

  網フェンスは郁人を誘っていた。

  手をかけて、次に足をかけて、ぐっと腕に力を入れ自分の体を引き上げようとした。

  だけれど、無理だった。

  街が決して逃がさない、と言っているように見えたから。

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