3 花信風(2)
二年生の靴箱は一年と三年に挟まれ、広い玄関口の中央に位置している。
ちょうど顔の高さにある左端上の一マスに手を伸ばし小さな扉を引いた。そこには見慣れた黒のローファーが一足入っている。
普段の喧騒はどこへやら、周囲を見回しても人一人いない。
非日常的な静けさに、どこか浮足立つような気分でローファーに足を差し入れる。つま先で地面を突いて調節し、郁人はまたやってしまったと思った。靴が傷むと分かっていても長年の癖はなかなか治らない。いつもやってしまってから気づく。
校門の桜並木を遠目に眺めながら一号館校舎を出る。
日は頭上まで昇っており、急に差し込んできた光に思わず目を伏せる。
すると、目の前を大きく過ぎる影が現れた。しかし避けることは叶わず、その人と郁人は肩口で衝突した。
不意を突いた登場によろめき、眩しさと衝撃にぐらつく額を抑える。郁人は反射的にその人の顔を見上げた。
見覚えのない顔とどことない幼さから一年生とわかるが、身長は百八十をゆうに超えるだろう。なにより彼の服装は制服ではなかった。どちらかと言えばスポーツの練習着のような通気性のよさそうな半袖のそれだ。ハーフパンツと膝にはプロテクターが巻いてある。なかなか本格的な格好をしていた。
よく見ればその右手には何やらバレーボール部の練習表らしきものが握られている。小さな記名には鍋島とあった。
「鍋島」
大場が先ほど話題に出していた、女子バレー元日本代表の息子だろうか。
「大丈夫ですか? 怪我とか……」
思わず口に出ていた名前は聞こえていなかったらしい。心配を口にしながら、眉根を寄せて顔を覗き込んでくる。
決して身長が低くはない郁人は、彼を少し見上げて呆気に取られていた。
細身の郁人からすれば、いや多くの男子なら羨ましいと思うほどの体格と精悍な顔立ち。
なるほど、これは期待とかいうレベルではない。
母親似か見目もよく体格に恵まれ才能もあるならば、誰だってこの人の将来性に賭けてしまいそうだ。
「う……うん、大丈夫。君こそ運動部なのに怪我はない?」
「はい、俺はなんとも」
しかし郁人は見るほどに、どこかで見たことがあるような謎の既視感を覚えていた。はて、有名人の息子だ。鍋島頼子と同様に、テレビででも目にしたのだろうか。
「あの……本当に大丈夫ですか? 頭とか打ってないですか」
郁人の会話の間に耐え兼ねて尋ねてきた彼は首を傾げていた。いよいよ本気で心配されていると我に返って郁人は首を振る。
「大丈夫だよ。ごめんね、まじまじと見ちゃって。なんか知ってる顔な気がして……いや、何でもない」
郁人は口に出して違和感にはたと気がついた。
記憶を失う前は人並み以上に覚えが良かった。ここ数年の人への記憶力は何かの代償として強い力によって忘れさせられていると思うほどに。
郁人は既視感を覚えるという状況に長らく陥っていなかった。
「引き留めちゃったね。部活でしょ? 頑張って」
郁人は沈黙を携えながら目線を遠くへ逸らす。
先ほどからしきりに校舎裏の体育館からボールの跳ねる音が聞こえている。バレーに限らず推薦組の生徒は入学式前から練習があると聞いたので、彼もそうなのだろう。
郁人は半ば彼から逃げるように体を翻した。
「俺、一年C組なんで! もし怪我とか、なにかあれば来てください」
彼の気遣いの一言を振り切って郁人は早足でその場から遠ざかる。
郁人は言いようのない危機感に追われていた。
もしや。
彼に対する既視感は、消えた二年分に彼が存在したからではないか。
郁人はなぜだか思い出したくない気がして焦っていた。
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