2 花信風(1)
四月六日 土曜日
教師を哀れだ、と思う。
年に一度行われる、そして人生の門出となる入学式。
その日、新一年生は花の高校生活に胸を膨らませ、勉強について行けるだろうか、友人はできるだろうか、などとやきもきしているに違いない。しかしよっぽどのことが無い限りクラスから浮くことはまずないだろう。自分のような場合でない限り大抵は杞憂だ、と安達郁人は思っている。
教師はそんな一年生と違って毎年の恒例行事なのだ。飽きもするだろう。事実、奥まったちょうど一年生や保護者らからは見えないだろう位置に座る教師の一人は、珍しく整えた身なりのくせにあくびなどしていた。大口を開けて、荘厳な雰囲気が台無しだ。
一年の学年主任に就任した教師がマイクに口を近づける。郁人は身構えたまま「在校生代表」と呼ばれた声に椅子から起立した。
制服がまだ馴染んでいない新入生、気合の入った服装で身を包む保護者、そして妙に気の抜けた教師、姿勢だけ硬いフリのお偉い人。たくさんの人間が壇上に登る一人の生徒に注目する。
息を整えるふりをして郁人は軽くため息をついた。
目立っている。
郁人は手に持った一枚の紙を開いて、一文字目に目を通した。
「祝辞」
テンポを緩めることはなく、連ねられた文字を淡々と読み下す。
余計な空想だが、誰一人として「ちょっと待った!」などと乱入してくることもなければ、誰かがフラッシュモブのように手を叩いて歌い出すこともない。花粉症のくしゃみでも、うつらうつらした教師のいびきでも、一瞬でも自分から意識を逸らしてくれる存在はいないものかと考えたのが馬鹿だと思う。
「在校生代表、安達郁人」
最後に読み終えた文章を眺めると、紙を折りたたみ、一歩下がって礼をする。
何事もなく人目から逃げきると、教師の隣に設置されたパイプ椅子に静かに腰を下ろした。隣に座る今年の担任教師は、郁人と目を合わせるなり膝の上でバレないように親指を立てて爽やかな笑顔を見せる。郁人は答えるように口角を持ち上げてそのまま次の注目へと目をやった。
正門から一番近い一号館校舎。それの三階に位置する生徒会室は、今日から郁人のものになる。
二年A組出席番号一番。生徒会会長。
去年とは学年、そして肩書以外何も違わないそれを心中で呟く。
郁人は学校指定の青いネクタイのつるりとした布地に触れながら、いつも通り長机に無造作に学校指定の革鞄を置いた。
静かな人気のない室内で窓を開放する。春の少しひんやりとした風は頬を撫ぜてゆく。頭上に降り注ぐ日光は気温に対して少し暖かすぎる気がした。
郁人はパイプ椅子を窓際に寄せて座ると、身を乗り出して正門を見下ろした。
新一年生は早くも友人を作っているようで、仲良さそうに下校しているところだった。彼らは真新しい緑のネクタイに触りながら何やら話している。入学年度ごとにデザインの違うネクタイは珍しいだろう。ちょうどその話題に花を咲かせているようだった。
そんな華々しい門出を祝福するように、校門前の桜並木が枝を揺らして花弁を散らし、桃色の絨毯を作る。
「……桜の木って虫の温床ですよね。ケムシなんかもいるから、触らない方が身のためなのに」
郁人は生徒の一人が無邪気にも桜の枝に手を伸ばしている様子を見てそう言った。
上から見下ろしても下から見上げても八重咲の桜の木は美しい。しかしひとたび幹に顔を寄せれば虫という虫が住み着いている。バラに棘があるように、というには桜に居付く欠点は大きすぎる気がする。
散った花弁を容易く踏みつける代償と思えば悪くもないか。
そう言うが郁人は別段、ここから声を張り、その生徒に注意を促すつもりもなかった。
「普通そこに着目するか? もう少し風情というものをだな」
生徒会室にノックなしで入って来た教師はおそらく顔をしかめているに違いない。先ほどの入学式であくびをかましていた張本人で、生徒会の顧問担当でもある。名前は大場才輔。去年の郁人の倫理教師であり、今年の二年は世界史を担当するらしい。
普通とは何だろう。倫理を教えられる彼なのだから議論には付き合ってくれるだろうが、郁人はそんな気分でもなかった。
「紀友則はすごいですよね。虫だらけの木を見てあんなに雅やかな句を詠めるんだから。もしかしてすこぶる目が悪かったのかな。それとも見ないふりができる都合のいい目を持っていたのか」
「不機嫌そうだな」
平安貴族は気楽そうですね。
大場の的を得た指摘に郁人は言いかけた言葉を噤んだ。
ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
日の光が降り注ぐ春の日に、落ち着きなく桜の花が散っているのはどうしてだろう。
どうもこうもない。ただ自然現象として命の循環として花弁は散る。それだけ。
郁人の色の薄い瞳に桜並木が映る。郁人は花より団子派だ。桜の花びらだって塩漬けになって美味しく頂かれるべき。桜の塩漬けが練り込まれた桜餅は絶品だ。
「そういえば。今年の俺の担任、本当に平松先生なんですか」
親指を立てて、まさに自慢の生徒と言わんばかりの笑顔を向けてきた教師。思い出すだけでうんざりした。エネルギーを勝手に吸われている気分になる。
同時に無神経そうな態度が癇に障る。得意なタイプではない。
大場は珍しくワックスで整えたくせ毛を撫でながら、決して座り心地の良くないパイプ椅子に腰かけた。
音のわりに頑丈なところだけがパイプ椅子の取り柄だろう。あとは折りたためてコンパクトなところ。郁人が地味に気に入っているものの一つ。
「あの人、暑苦しいんですけど」
数学教師のくせに、といえばそれは偏見だ。郁人は余計な一言を押し込める。
「熱血ぶりは否定しないがな。たかが一年だろ。我慢するんだな」
されど一年。高校生の一年とは高校生活の三分の一に値する。不満ながら郁人は頷くこともせず、これ以上文句を垂れることもなく口を強く閉ざした。
郁人が目に見えて不満そうに唇を尖らせているのは久々のことだ。大場は珍しがっていた。
大場は気を利かせて、というより面白がって話題を変える。
「そう言えばな、うちのクラスに有名人がいるんだ」
郁人はその言葉にささやかに反応した。
この手の話はあまり得意ではない。
有名人や有名人の親戚がいると校内がロクでもない色に染まっていくからだ。郁人の学年にも一人、芸能界で花を咲かせている生徒がいたはずだった。そして風稜生は在籍の事実を黙秘する必要がある。その人のプライベートを守るために。話さないのは簡単だが、隠すのは大変だ。学校行事で取材のカメラが入ってきたときはさすがに驚いた。
郁人は大場を振り返る。
ぴしっとしたスーツを着こなしており髪もセットしているのに、対して目の下の隈は酷く濃い。うちのクラス、という言葉の通り彼は確か今年、一年生のどこかのクラスを受け持つことになっていたはずだ。一年生の担任教師の春は忙しいと聞くので最近は寝不足だったのだろうか。意外にきちんと教師をやっているものだ。
なるほど、静かで春のうららかな日差しの差し込む入学式は眠気を誘うに違いない。大あくびのことは言わないでおこう。
郁人は気分転換に付き合う気持ちで、大場に話を促すように視線を送った。
「女子バレーボール元日本代表の息子だと」
大場のわざとらしい口笛に思わずため息が漏れる。郁人の唇の形が「かわいそう」と同情を寄せた。誰誰の息子、誰誰の娘、兄が、姉が、はたまた弟が、妹が。勘弁してほしい。
「期待されるってのは嬉しいことだろうけど、同時に凄いプレッシャーだろうな」
大場は郁人の感情に賛同する。
「鍋島は安達ほど思いつめるような性格じゃなさそうだが」
「俺は思いつめてないですよ、別に。……俺は自分で決めた道を生きるのがかなり茨だなってだけで」
「茨道から針の筵に引きずり込もうとする存在がいるからな」
いつもなら笑って言いそうなことなのに、大場はやけに真剣な口調で呟くようにした。
──もう、期待しないで欲しい
期待をされないのは自己を否定されているようだが、またその逆もその人の心を押しつぶしていく。空気に溶けるべく吐き出されたその言葉は、郁人の疲労を物語っていた。
わかりやすい味方ができてから郁人の表情は数段明るくなったが、それでも人生が楽しそうには見えない。表情も固まっていて、海底で息を止めているに近いとさえ思う。
今も重そうに椅子から立ち上がる郁人を大場は見上げる。
「ああ、鍋島ってバレーの日本代表、思い出しました。鍋島頼子ですよね。神がかり的なチームの育成方法で注目されていた」
「覚えてるのか」
大場は目を丸くした。
郁人はここ数年、人の名前と顔が覚えられない障害に苦しんでいた。それはちょうど解離性健忘症を発症した直後から。これは軽度の相貌失認にあたるらしい。
その上郁人は中学一、二年の間の多くの記憶を失っている。失った記憶の原因や、相貌失認との関連性についてはまだ分かっていない。
ただ鍋島頼子は過去によくテレビで映っていたように思う。活発なショートカットで表情は硬め。ただ顔の整った美人で長身のため、モデルのような仕事もやっていた気がする。今は海外にいるのだろうか、最近は顔を見ない。
「初めて名前を聞いたのがかなり前だったのかも」
郁人はスラックスのポケットからはみ出たクマのマスコットを。やや乱暴に掴み引きずり出した。クマにはこの生徒会室の鍵がついている。正確にはカギにマスコットがついているのだが。
「そろそろ帰ろうと思います」
「そうか。なら、先生も教員室に戻るとするかな」
生徒会室の扉は閉められる。かちゃん、と音が鳴るまで鍵を回してそれを引き抜く。
郁人は肩に掛けた制鞄を担ぎ直し大場に振り向いた。
大場はそんな郁人が首を掴んでいるクマのマスコットを指さす。
「誰がつけたんだ? それ」
「これですか? さあ、俺の手に渡った時にはすでについてましたけど。それに俺はこのクマが何かすら知らないので」
「そいつは花……」
大場はそこまで口にして指していた手を降ろした。言いかけたことを封印して言い直した。
「いや。そいつは確か鍵島市のご当地キャラクターだったはずだ」
郁人は手の中のクマを見る。
茶色のクマの頭には小さな桜の木が刺さっている。クマの目はぐるぐると黒で塗りつぶされていて、まるでクマの養分を吸って桜の木が育っているようだ。なかなか個性的かつ不気味なデザインだが、キモかわというジャンルなのか、郁人は詳しくない。
「あんまり優に見せない方がいいかもしれない。気分を害するだろうからな」
まじまじと眺める郁人をよそに大場は手を挙げて疲れの滲んだ猫背を向けた。マスコットから顔を上げて「どうして」と尋ねる前に大場は廊下の角を曲がっていた。
郁人はもう一度手のクマを見下ろしてポケットにしまい込んだ。
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