紫紺の乙女
パンドラシティが建設されるより以前、フラクタスの掘削調査が始まって間もない頃引き起こされたイミュニティによる大殺戮に伴い、閉鎖された忌み深い坑道。
数十年の年月を経てなお、固く閉ざされたままだった無音の暗黒空間に突如、眩い光が射し込む。
「うおおらあああ!!!」
二度と化け物共が地上に這い出さないようにと、何重にも塞がれた隔壁を貫いて墜ちてきたのは、イミュニティの頭を杭のように真下に突き立てて落下したミサゴ。
アナスタシアという後ろ盾を得た若き猛禽は、一切の遠慮もなく隔壁目掛けて加速し、鋼鉄のマットを何枚も砕きながら掘削放棄された坑道の底へ墜ちていく。 通常のイミュニティであれば既に死んでいてもおかしくない衝撃だが、ミサゴが拘束を続ける化け物は未だ生きていた。
「ググッ……」
何とか一矢報いようと化け物は身じろぎをし、僅かに緩んだ拘束の隙間から触手を伸ばすも、ミサゴの余裕が緩むことはない。
「一発でも殴りたいと思うのは勝手だが、前見て無くてもいいのか?」
「!!!?」
冷たい眼差しと共に下された言葉をイミュニティが理解したかは定かではない。 だが何らかの動揺らしき反応を見せた瞬間、そのおぞましい肉塊は現行の探査ポッドのレーザードリルですら掘り抜けない岩盤へ叩き付けられ、原型すら残さず完全に四散した。
「図体だけが立派な馬鹿が相手で、こっちとしては大いに助かったよ」
イミュニティが墜落死して数秒後、円を描くような緩やかな軌道でミサゴが静かに降りてくる。 その漆黒の左腕の上には、落下ギリギリで切り出された腹部がホールドされており、犠牲は誰一人としていない。
「さて、中の人が無事だといいんだが……」
一体どのタイミングで捕らわれたが知らないが、救出は早ければ早いほど良い。 後味を悪くしないためにも、ミサゴは内部の人間を傷付けないようブレードを肉の塊に添え、慎重に切り出し始めた。
「頼むから生きていてくれよ」
せっかくここまで無茶やったのに無駄足だったで終わってはあまりに救いがない。 見るからに身体に悪そうな液体をざぶざぶと流出させ、ザクザクと骨と皮の檻を砕きながら、ミサゴは切り開いた腹部の中に手を伸ばす。
そして、その先にあった人影の主の手を確かに掴んだ。 細く柔らかい手からは温かみと微かな脈動が宿り、未だ息があることを伝えてくる。
「大丈夫か? しっかりしろ! 必ず助けるから安心して……」
万が一を考慮し、抱きかかえるようにして被害者を引っ張りだそうとした瞬間、ミサゴの顔が無意識のうちにパッと赤らんだ。
化け物の腹の中に捕らわれていたのは濡れ羽色の長い髪が印象に残る、蠱惑的で美しい乙女。既に消化されてしまったのかその身体には一糸たりとも纏わず、艶やかなボディラインが惜しげも無く露わとなっている。
さらに全身を紫の華の紋様を象った光の帯が彩り、ただでさえ優美な彼女の裸体を大いに際立たせていた。
「……たく、汚ぇ化け物が随分と趣味の良い獲物を喰ったもんだな」
言動こそ乱暴であるものの、ミサゴの手つきは先ほどとは打って変わって優しく繊細なものであり、彼女の体表を覆っていたゲル状の何かを拭い落としてやると、着古したボロボロの防弾コートを被せて肌を隠してやる。
「悪いな、しばらくそれで我慢してくれ。 もう少しの辛抱だ」
ケリを付けたとすぐにハイヴへと通信を送り、ミサゴはアンプのアイドリングを再開し気合いを入れる。 救命インジェクターの類いを持ち合わせていない今、自分に専門的治療は出来ない。 ならば自分がやれることをやるだけだと。
「フゥー……」
何が潜んでいるかも分からない深い暗闇の中で、ミサゴの抑えめの呼吸音だけがか細く響く。 しかしそれも束の間、新たな呼気が闇に響き、今まで気を張り詰めさせていたミサゴの殺気が微かに緩んだ。
「……ん」
「大丈夫か? この場は俺が制圧しているから安心しろ。 自分の所属や名前は言えるかい?」
ゆっくりと身体を起こした乙女の背を支え、顔を覗き込むミサゴ。 その顔からは普段の無愛想で険のある雰囲気は消え、素の優しげな表情が露わとなる。 顔に深々と刻まれた十字の醜い傷が不似合いであるほどに。
それに対し、目覚めたばかりの乙女の表情はどこか虚ろ気だった。 自分の状況を把握できていないのか、ただ虚空を見つめ時折周囲を見渡すことしかしない。
「あ……うう……」
「心配するな、すぐにハイヴからの増援も来る。 すぐに必ず安全な場所まで連れて行ってやるからな」
何をするでもないが次第に譫言を口にし始める名も知らぬ乙女の姿に、ミサゴは思わず近づいて励まそうとするも、自身に埋め込まれたアンプが警鐘を鳴らしたのを察し足を止める。
「……!」
イミュニティの反応でもなければ、何らかの兵器でロックオンされたわけでもなく、至急退避せよというアバウト極まりない警告にミサゴは即断即決し、座り込み続ける乙女へ咄嗟に手を伸ばした。
「うあ……?」
「説明している暇はない!」
ヤバいと感じた時は即座に逃げる。 これが出来ないだけで犬死してきた人間を山ほど見てきたミサゴの身の翻しは早く、驚いて身を引いた乙女の手を強引に掴もうとした。
――刹那、ミサゴの全身を突如激しい発光と衝撃が襲い、坑道の小さな横穴の奧まで易々と吹っ飛ばした。 ほぼ水平に飛んでいった身体は打ち棄てられた採掘機械を幾つも粉砕し、真っ黒な岩盤へと叩き付けられようやく停止する。
「ガッ!?」
常人なら容易く全身が破裂して四散するほどの勢いで着弾し、ミサゴは頭から血をダクダクと滴らせながらも、自らの両足だけで意固地に姿勢を保ち続ける。
「なんだ? なにが起こった?」
警告こそあったものの、ミサゴ自身他の予兆は何も感じることが出来なかった。 気配も、音も、何より自分を痛め付けた何者かの存在も。
「ふざけやがって……」
痛みに悶えている暇は無いと、若き猛禽は口に溜まった血を吐き出して拳を握る。 敵はまだいるに違いない。 そして、次に狙われるのは恐らく闇の中に一人残されたあの美しい人のはずだと。
「やらせるかよ!」
地を砕かんばかりに蹴ると共にアンプを起動し、掠れた影となってミサゴは闇の中を疾駆する。 いつ自分を攻撃した敵と遭遇しても構わないよう、ブレードとアームの準備に抜かりは無い。
誰かを殺される前に必ず殺してやると、凄まじい殺意の塊が横穴から猛烈な勢いで飛び立った。 ……が、眼下で繰り広げられていた非現実的な光景を目にした途端に、それは心に渦巻いていた狂気染みた怒りを霧散させる。
「な……」
ミサゴの視界に映っていたのは、闇の中で全身から眩い紫紺の輝きを放つ乙女。 如何なる手段を使ったか定かではないが、彼女の身体は音も無く宙を揺蕩い、ホバリングしていたミサゴと同じ高度まで浮かび上がってくる。
「ふふっ」
ミサゴの動揺など意にも介さず、未だ名乗らぬ乙女はただ意味深げに微笑むばかり。 そして彼女が数度の深い呼吸を繰り返した瞬間、坑道全体に劇的な変化が生じた。
宙に揺蕩う乙女の鼓動に合わせるように、坑道を縦横隙間無く埋める漆黒の岩盤の内部を格子状の閃光が走り抜け、明滅し始める。 そして彼女が軽く片手を掲げると、まるで岩自体が生きているかのように動き出し、誰も足を踏み入れたことの無い深淵への扉を開いた。
「なんだコレは!? 君は一体何者なんだ!?」
常識では有り得ない現象の連続に、戸惑いと畏れが入り混じった表情をしたままミサゴは反射的にブレードの切っ先を超常的な力を有した乙女へ向ける。
もっとも、相対する彼女はミサゴが一切の殺意を抱いていないことを理解しているのか、突き付けられたブレードを抱くように自ら手を這わせると、ハッキリとした言葉を紡いだ。
「……アイオーン」
レリックの中でミサゴだけが目撃した、とても短い言の葉を。
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