第三章 Ⅲ

 

 黒天馬と帝国空軍は山頂の窪地の上で正面から激突した。両軍は攻撃と防御の魔法を互いに繰り出し、命中したり弾かれて撥ねるその光の交錯は、見上げる夜空に血管のような模様を拡げていった。空軍は三騎一組で黒天馬に立ち向かったが、組織だったその動きは一騎を追いかけ回しているところを黒天馬から狙われるという具合に、空軍がやられることも多かった。

 先鋭が上空の露払いを終えた頃、特務部隊の銀燕が流星群のように飛び出してきた。銀燕は星まつりで見た時のような複雑怪奇な航跡を描きながら、戦闘の合間をすり抜け、山頂で陣形を描いたかと想うと、銀色の大竜巻のように回転しながらわたしの許へと真っ直ぐに降りてきた。その旋回は素早く、間隔が広がったと想ったら密集し、上下左右、乗り手の位置が細かく入れ替わって瞬時に移動するので、撃ち落そうとする黒天馬の魔法は狙いをつけることも出来なかった。また、銀燕は手綱を使った片手運転で、片手には魔法杖を青い炎のように掲げていた。渦巻の周囲に防御幕を張りながら飛んでいるのだ。

「回収して即時、撤退だ」

 銀燕が起こす輝かしい旋風の中にセレスタンの姿が見えた。窪地の底に達した濃灰色の箒がつむじ風を起こしながら交互に周囲を飛び交っている。セレスタンがわたしに手を伸ばした。

「掴まれ、ユディット」

 彼だけでなく、空挺隊員は地面すれすれを繰り返し飛びながら、それぞれにわたしとファウスト中尉を拾い上げようとしていた。皇軍の攻撃魔法によりわたしの周囲にいた東側の魔法使いはなぎ倒されて木切れのようにばたばたと倒れていったが、その中にはフリードリヒ子爵の姿もあった。

「ファウスト、こっちだ」

 わたしの手で縛めの綱を解かれたファウスト中尉は一瞬も躊躇することなく背後から滑り込んできた隊員の箒の後ろに走って飛び乗った。

「ユディット嬢も、お早く」

「ユディット。早く」

 セレスタンが叫んだ。

 咄嗟にわたしは誰か知らない、初対面の隊員の手を取っていた。わたしの腕を取り箒の前面に引き上げた者の方が慌てていた。

「うっかり自分も手を差し伸べてしまいましたが、いいんですか。ジュノー大尉の箒でなくて」

「彼、怒ってるわ」

 半泣きになってわたしは同乗した箒にしがみついた。子爵屋敷から決して出るなとあれほど云われていたのに約束を破ってしまった。あんな怖い顔をした男の箒に乗る迂闊な女はこの世にいない。

「ジュノー大尉はユディットさんを救出する為に、皇帝陛下に水晶珠を投げつけましたよ」

 ええっ。

「空軍では今その話で持ちきりですっ」

「話は後だ」

 隊員の箒に二人乗りしているファウスト中尉が声を放った。

「マインラッド少尉、令嬢をお連れせよ。全速で離脱だ」

「了解」

 愕いたことに、わたしを乗せた箒を操っているのはまだあどけなさの残る、わたしよりも年下の少年兵だった。選抜隊は年齢に関係ないと云っていたから、この少年は飛び抜けて優れた箒乗りなのだろう。

 ところがせっかく乗せてくれた男の子の箒は早々に敵の集中攻撃に見舞われることになった。黒天馬は遊撃隊を回しており、急上昇した箒の行く手に黒い幕のように立ち塞がってきたのだ。連続で強い衝撃があり、箒が傾いた。振り返るとマインラッド少尉がやられていた。いくら銀燕といえども、蜂の巣の中で集中砲火を浴びては堪らない。わたしは背後の少年に呼び掛けた。

「あなた、大丈夫」

「ユディットさん、しっかり箒を握って」

 少年兵は血に染まった腕を前方に伸ばした。

「前を見て。あの青い星を目指して真っ直ぐに飛んで下さい。友軍がすぐ近くまで来ています」

「駄目よ、何をする気なの」

 負傷した少年兵はわたしに箒を譲ると、足手まといにならぬように、自ら空中に身を投げ出してしまった。

「ユディット、前を向け」

 すぐにセレスタンがやって来て、近くからわたしを叱咤した。

「高度を上げろ。皇帝軍の許まで振り返らずに飛ばすんだ」

「セレスタン」

 身体の震えが止まらない。その間にも攻撃は続き、セレスタンはわたしの周囲を飛びながら魔法を揮って黒天馬が放つ鋭い光を撃ち落していた。

「君なら出来るユディット」

 動揺して揺れ動いている視界の端で、落ちていったマインラッド少尉を銀燕の誰かが墜落前に救い上げているのが見えた。わたしは前を向いた。空軍の箒は大型で、通常の箒には許されていない速度も出るようになっている。箒乗りでもないわたしには操れる自信がない。でも何としても飛ばなければ。

「いいぞ。そのままの姿勢だ」

 箒が安定したのを見定めると、セレスタンは護衛の役を他の者に譲って後方にさがり、箒を旋回させて窪地の方へと戻って行った。今のわたしに求められていることは、彼らの闘いの邪魔にならぬように戦線から一刻も早く離れることなのだ。

「軍が後続部隊を送り出してくれています。合流するまでもう少しの辛抱です」

 護衛の銀燕がそう云って励まし、わたしの箒に手綱を引っかけて牽引してくれた。この空域は東帝国寄りなのだ。長居すれば全滅だ。それが分かっている銀燕は敵を振り切るだけ振り切って、戦闘から逃げ出せた者から続々とわたしの後に続いていた。残りの者はまだ、荒れ地の底で味方を一人でも逃がすために闘っている。セレスタンもそこにいる。

 わたしは心を決めた。

「ユディット嬢」

 護衛が叫んだ。急に前に出て手綱を振りほどいたわたしの箒が向きを変える。月光が箒を照らし出す。大きな弧を描いて濃灰色の箒は反転し、山の上の窪地目掛けて斜めに降下していった。わたしの箒の軌跡を、呆気にとられた顔をした銀燕たちが振り返って追っている。

「ユディット」

「今のうちに逃げて」

 わたしの取るべき位置は先頭ではない。いちばん後ろだ。明らかに攻撃の手がゆるんでいる。想ったとおりだ。わたしが邪魔になって想うように魔法を飛ばせないのだ。戻ってきたわたしを見たセレスタンは怒鳴った。セレスタンはわたしに箒を譲って落ちたマインラッド少年を乗せた二人乗りの箒を逃がすために猛然と闘っている最中だった。

「戻れ。君が捕まるだけだ」

 彼の指摘するとおり、しんがりについたわたしを捕縛するための包囲陣形を敵の黒天馬は空中に作りつつあった。

「皆さん、今のうちに逃げて」

 黒い網が遅れがちなわたしを背後から吸い込もうとしている。

「あなたに伝えたかしら、セレスタン」

 すでにわたしの箒は泥酔したようにふらふらしていた。

「わたし、箒に乗るのが本当は下手なのよ」

 魔法使いは幼少期から箒を乗りこなすが、稀に箒に乗れない魔法使いや、わたしのように怪我のせいで子ども時代に修練が積めなかった者もいる。箒の離着陸の際には脚に負担がかかるからだ。

 後ろで黒天馬の首魁が叫んでる。リゲイリアを得るのに必要な娘だ、あの魔女を生け捕れ。

「ユディット」

「兄たちから贈られたわたしの白い箒は特注製なの。補助つきの子ども用の練習箒を、見映えだけはふつうの箒に変えたものなの。本当は自分の箒でないとうまく操れないの。逃げるのは無理」

 敵の魔法が飛んできた。あてるつもりはなかったのだろうが、運悪くわたしのふらついた箒の先に直撃した。ひっくり返った箒から跳ね飛ばされて振り落とされたわたしをセレスタンが空中で掴んだ。

 間髪を入れずばちばちと周囲で魔法が爆ぜる。攻撃を避けるために急旋回しながらセレスタンは箒の前に座らせたわたしを片腕で抱き、振り落とされないようにわたしも彼の身体に両腕を回した。『恋人乗り』だ。

 音と光と爆風が飛び交っている。彼は馴れているかもしれないが、わたしは戦場など始めてだ。雷雲の中に飛び込んだらこんな感じなのだろうか。恐怖を通り越して気が遠くなりそうだ。

「セレスタン」

「ここを切り抜けるぞ」

 銀燕と黒天馬が入り乱れての乱戦になっていた。魔法と魔法が激しくぶつかり合う時の金属音が木霊する。

 雲を突き破り、風と攻撃をかいくぐり、ものすごい速さで空を飛んでいることしかわたしにはもう分からなかった。

 追撃する魔力を紙一重ですり抜けながら、挟み撃ちにされそうになった箒が雲の中に飛び込む。雲の裂け目から覗く天界は静かすぎるほどに静かな星の夜で、星空が雨に打たれる湖面に見えるほどだった。



 埋めないと。

 誰かに見つかる前に森の中に埋めないと。



 もう一度雲の下に出た時、フリードリヒ子爵の遺体が眼に入った。仲間の魔法使いと共に初弾を浴びたフリードリヒは隠れる処もない吹き曝しの中で奮戦したが、それも虚しく、無残にやられて死んでいた。遭難者のような死体は折れた魔法杖を握っていた。呆気ないものだ。戦争は誰の命であっても容赦なく断ち切っていく。彼を慕うヘルマンには絶対に云えない死にざまだ。

 意識が飛びかけた。セレスタンが呼び掛けた。

「しっかりしろ、ユディット」

 何かの破片が箒を掠め過ぎる。やはり二人乗りは不利だ。このままではやられてしまう。

「セレスタン」

 火の粉のように魔法が周囲に飛び散っている。わたしは顔を上げた。あなたに云ってやりたいことがあるのよ。風の音に負けぬように大きな声を出した。

「魔女を見たら口笛を吹いて口説かないと空軍ではないとか」

「後で。いくらでも」

 怒鳴り返して、セレスタンがわたしを胸に強く抱き寄せた。

「大丈夫だ。絶対に離さない」

「わたしを落としてもいいわ、セレスタン」

 前にもこんなことがあった。

「あなた独りなら逃げ切れるでしょ。わたしを振り落としてもいいわ」

 重低音を立てて魔法砲弾が飛来する。銀燕がそれを撃ち落とす。飛び交う複雑な光線がきっとわたしを魔女らしく見せている。

「速度を上げて振り切ってセレスタン。銀燕の尾はいつでも彗星のように流れていなければ」

「君を失望させたくはないな」

 光の中でセレスタンは不敵に笑った。

 それからのことはあまり憶えていない。加速した箒は消えて見えるというが、同乗者にとってはただの恐怖だ。空軍の箒でなければ木っ端微塵になっただろうし、セレスタンが強く抱いていなければ一瞬でわたしの身体も吹き飛んでいただろう。片腕でわたしを支え、片手綱で箒を操ってセレスタンはそれをやってのけた。

 やがて後続部隊が現場に到達した。後できくと空軍ではなく、最も近い基地から緊急離陸した陸軍の箒部隊だったそうだ。皇軍は黒天馬を押し戻し、その猛烈な反撃を受けた黒天馬は深追いを止めて退いていった。 

「担架を」

 基地に着地した途端に、わたしの膝は力を失くして崩れ落ちた。二度と空は飛びたくない。臨界突破の相当な負荷がかかっていたセレスタンの箒の柄には深い亀裂が走り、柄頭の金の徽章も歪んでいた。

 壊れた箒。燃えている一本の木。誰かの声。



 箒を持つんだ、ユディット。

 その箒が、お前を新しい世界に連れて行ってくれる。



 医療団とおぼしき白衣の魔法使いが続々と箒で降りてきた。駈けつけた医療班にわたしを引き渡すと、セレスタンは近くにいた者の箒を奪い取ってまた飛び立ってしまった。

「ジュノー大尉は逃げ遅れた者の有無を確認に行ったのだ」

 眼鏡をかけた精悍な顔つきの男が担架に横になっているわたしを上から凝視していた。その間にも続々と銀燕が前線基地に帰着してくる。眼鏡の男に敬礼を送る者もいる。たくさんの流れ星。わたしは泣いた。箒から落ちていったあの男の子はどうなったの。

「安心するがよい。マインラッド少尉は無事だぞ」

 力強く眼鏡の男は請け合った。その男の顔をぼんやりと見上げていると、

「これか。夜間でも先まで見える特殊な眼鏡だ」

 男は眼鏡を外した。

「こちらの淑女を宮殿に運ぶのだ。丁重に扱うのだぞ」

 医官に命令している鷹のような鋭い眼をした男。ベルンハルディン皇帝だった。



》3-Ⅳ

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