第三章 Ⅱ
わたしはファウスト中尉の小脇に抱えられて、不安定な体勢で箒からぶら下がっていた。
「乗って下さい」
ファウスト中尉に助けられながら、よじ登るようにして何とか背後に座った。傍らをホルスト中尉の箒が飛んでいる。二股に分かれた軍服の長い裾は前にいる中尉の背中につくとわたしを避けて左右でひらめいた。
黒い貨車から墜落していくわたしを拾ったのは箒で駈けつけたホルスト中尉とファウスト中尉だった。わたしを攫った黒塗りの貨車に追いつく為に二人の中尉は加速の上にも加速をかけて箒を飛ばし、そのせいで負荷のかかった空軍の箒には歪みとひび割れが入っていた。彼らは墜落してくるわたしに魔法を飛ばして落下速度を落とし、何とか救い上げることに成功してはいたものの、箒の状態は見た目にも危うかった。
あたりは切り立った崖だった。頭がはっきりしてくると、険しい崖と見えたものは雪が刷かれた大山脈の尾根だと分かった。稜線に沿って飛んでいる。
「箒を。わたしの箒を呼びます」
「白い箒ならば貨車から棄てられたのを見ました。完全に折れていた。無駄です」
魔女の箒は、魔女が絶体絶命の危機に陥った際には主の命を護る為に駈けつけてくる。その気配が皆無ということは、中尉たちの云うとおり箒は壊れてしまったのだろう。
空を見てわたしは叫んだ。
「黒い貨車が引き返してきます。中にはソフィアがいるの」
「箒を狙い貨車を横転させようと考えていましたが、では、それは出来ないな」
「ファウスト。時間を稼ぐぞ」
ホルスト中尉が叫んだ。
「嶺を楯にして貨車の動きが不自由になる狭隘を逃げ回ろう。俺は援護する」
「中尉たちはどうしてこちらに」
「ジュリオさまと逢ったのです」
箒を飛ばしながら二人の中尉は応えた。
「ジュリオさまには至急、金の楯への報告をお頼みし、自分たちは速度の出る空軍の箒であなたを攫った空中貨車を追いかけておりました」
「ユディット嬢。全てわたしのせいなのです」
ホルスト中尉が風の中からファウスト中尉の箒に乗っているわたしに告げた。
「わたしがソフィア嬢に協力をお願いしたのです。ソフィア嬢はかねてから子爵の行動を怪しんでいました」
黒塗りの空中貨車が大岩のように背後から迫る。高い山の山頂だというのに、尖った岩崖の間をすり抜けていると、まるで崖の底から星空を仰いでいるようだ。細かく箒を振って貨車の巨体を振り回そうにも、曲がった先に何があるか分からぬ山々ではこちらも想い切って振り切ることは出来ない。
「きいて下さい。フリードリヒ子爵は東の王朝についた裏切り者です。今夜、天の河で皇帝を暗殺する計画だったのです」
「皇帝はご無事です、ユディット嬢」
貨車から攻撃魔法が飛んできた。箒は尾根伝いに岩壁をすり抜けた。
「軍は破壊分子の動きを掴んでおりました。実際の殺傷は星まつりの現地でくい止めております」
火花が岩にあたる。追手から繰り出される魔法がわたしたちを追う。背後で岩棚が爆ぜて雪の塊が飛び散った。
「逃げ切れるといいが」
防御魔法を繰り出しながら、ほぼ敗北宣言のように二人の中尉は呟いた。いくら軍用に改造された箒とはいえ、わたしを連れているのだ。傷んでいる箒よりも確実に貨車の方が速い。
黒い貨車に追いかけられて、隘路を抜けたり尾根に昇ったりと逃げ惑ううちに、頭上に見えていた星空が突如、前方に大きく開けた。
「まずい」
わたしを後ろに乗せたファウスト中尉が呻いた。眼の前に広がっていたのは広大なすり鉢状の荒れ地だった。太古の昔に山が噴火したか、星が山に堕ちた時の跡だ。月面のようなその広大な陥没地は、山肌が深く落ち込んだことで高い崖が円周に出来ており、湖の底のようだった。これでは身を隠す障壁がなく平地と変わらない。深く窪んだそこは星空の下に雪まじりの荒れ野を晒しており、外周の壁は果てが見通せないほど続いていた。
絶体絶命を覚悟したファウスト中尉は怒鳴った。
「信号弾だ、ホルスト」
ホルスト中尉はすぐに信号弾を取り出した。彼は僚友に確認をとった。
「この空域は東帝国寄りだ。信号弾を上げれば叛乱軍から見えてしまうぞ」
「わが軍の哨戒が先に気がついてくれることに賭けるしかない。やろう」
すぐさま、ホルスト中尉は信号弾を夜空に向けて打ち上げた。信号弾が昇り切らぬうちに黒塗りの貨車から放たれた魔法が平原に出たわたしたちの箒を撃ち落とした。二つの箒は窪地に突っ込み、滑り、がりがりと岩肌を削るようにして荒れ地を突っ走ってようやく止まった。
箒から投げ出されたわたしを二人の中尉が抱き起している間に、貨車から次々と魔法使いが降りてきた。
「空軍兵士は東帝国に連行する」
魔法使いは手早く中尉たちから魔法杖を取り上げ、二人を背中合わせにして後ろ手に縛り上げてしまった。
フリードリヒ子爵も貨車から窪地に降り立った。彼は立ち尽くしているわたしに視線を寄越した。
「邪魔が入った。もう一度試してみよう」
まさかもう一度、上空からわたしを落とすつもりなのだろうか。
フリードリヒは蒼褪めているわたしを無視して、魔法使いたちと何やら相談をはじめた。墜落する時にファウスト中尉が咄嗟にわたしを庇って地面に転がってくれたお蔭で擦り傷以上の怪我はわたしにはなかったが、身体のあちこちが痛い。
深海のように鎮まっている山の上には、他に生きている者の影すらない。
ふと見ると、ファウスト中尉がわたしに目配せをしている。背中合わせで縛られて座っている二人の中尉は、袖口の釦の裏に仕込まれた棘のような刃で見つからないように縄に切れ目を入れているところだった。
中尉の意を汲んだわたしはフリードリヒたちの前に飛び出した。
「もう一度、わたしを空から落とすつもりですか」
失敗してはいけないと緊張するあまりに、いい感じに上ずった声が出た。「ユディットに即興演技の才能はまったくないね」と昔ジュリオから云われたとおりぎこちなかったが、それによりかえって真実味が出たようだ。
狼狽えた様子をつくってわたしは彼らの注意を二人の捕虜からわたしの側に引き付けようとした。
「目的を知りたいわ」
「途中で助けるつもりでした」ひとりの魔法使いがむすっとして応えた。
「魔女を箒が救いに来るかどうか確認したかったのです」
「わたしの箒は、そちらの子爵がへし折って貨車の窓から棄てました」
「ユディット嬢は記憶がないそうだ」
彼らが何の話をしているのかさっぱり分からない。さっきまで晴れ渡っていた星空の一隅が次第に不穏に覆われて、遠方からは雷鳴まで響いていた。
「箒は主人を忘れない」
「それはつまり、わたしを窮地に陥れたら、わたしの知らない箒がわたしを救けに現れるとでもおっしゃるの」
「それを期待したいところです」
フリードリヒ子爵は認めた。
「暁の皇子に忠実だった唯一の王の楯の家。あなたはその家の娘。あなたを救うために箒は駈けつけてくるはずだ。あの箒の最期の持ち主は、あなたの生家だったのだから」
「兵士が逃げるぞ!」
振り返った魔法使いが叫んだ。縛られていた縄をふり解いたホルスト中尉は、振り返ることなくソフィアを乗せている黒い貨車に駈け寄り、一蹴りで御者台に飛び乗ると貨車を曳く箒を急発進させた。月を目掛けてたくさんの箒がほぼ垂直にのびあがる。
子爵と魔法使いが魔法を飛ばして阻止しようとしたが、沢山の箒に繋がれた空中貨車は雪を蹴散らしてぐるりと向きを変え、ホルスト中尉の手綱さばきで一気に飛び出し、彼らの頭上を跳び越えて山の向こうに飛んで行った。
「よし」
脱出の成功を見届けたファウスト中尉が吼えた。あの空中貨車の中にはソフィアがいる。帝国領に逃げ込んだホルスト中尉の急報を受けて救援部隊がこちらにやって来るのがたとえ間に合わなくとも、ソフィアはこれで助かる。
残ったファウスト中尉を魔法使いが怒りに任せて蹴り転がした。
「やめて」
間に割って入るついでに、わたしはファウスト中尉を責めた。
「ホルスト中尉と一緒に逃げればよかったのよ」
「あなたを残しては行けませんよ。そんなことをしたらセレスタンに殴られてしまいます」
蹴られた程度ではファウスト中尉はちっとも堪えた風もなく、魔法使いがふたたび彼を縛り上げるのに任せていた。
「薄々もうお分かりでしょうが、セレスタンはあなたの護衛という口実で子爵家に入り込んだのです。監視の本命はあなたではなく、フリードリヒ子爵だったのです」
すまなかった。
あの時、セレスタンが云ったあの言葉は、そのことなのだ。
「あなたを騙しているようなものですからね」
夜空で家出中のわたしに逢った時から、子爵に怪しまれずに近づくいい口実になるとセレスタンは考えていたそうだ。叛乱分子の不穏な動きを把握していた軍部もその案を認めた。
「でも、あいつは上層部に掛け合っていましたよ。ユディット嬢は何も知らない、陰謀とは無関係だ、監視対象から外して保護対象にするべきだと」
暗殺現場となる天の河から安全な子爵屋敷に送り届けたはずの保護対象が、まさか魔都を遠く離れた大山脈地帯の山の上にいるとはセレスタンも想わないだろう。
わたしたちには次の危機が迫っていた。ホルスト中尉が駈る空中貨車の影はすっかり夜空に消えていたが、その反対側の天空には黒い雲が増えていた。地鳴りのような不気味な轟きが近づいている。
「嵐が来るのかしら」
「いえ」
ファウスト中尉が口を濁した。
「お伝えするのは遺憾なことですが、あの音は東帝国の攻撃部隊、黒天馬の箒の音です。こちらに向かっている。照明弾のせいだ」
悔しそうに中尉は呻いた。
「この山を調べに来たのでしょう」
しかし偵察に来たわりには数が多い。夜空の一部が黒い水に覆われていくようだ。ファウスト中尉も怪訝そうにしている。黒雲となって黒天馬は接近する。
反対側の空に眼を遣ったファウスト中尉が叫んだ。
「ユディット嬢、あちらを」
天界の巨神が槍を投げたらあのように見えるのではないだろうか。光る星が見えたと想ったら、その星はちかちかと閃き、うねるように左右に翼を伸ばしたかと想うと、鋭い影のように先を尖らせてそのままこちらに押し寄せてきた。帝国空軍の空挺部隊だ。
》3-Ⅲ
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