第一章 Ⅳ

 

 森林公園の木陰で眠りに落ちていた時のわたしの顔は、苦しそうだったそうだ。セレスタンがそう云うのだ。

「今は起こさないほうがいいと判断した」

 魔女の見る夢には意味がある。夢の内容を語ってみると、現役軍人のセレスタンはすぐに反応した。

「戦場に子どもがいるなど、ありえない」

 断言型の軍人口調はいつものことなので、わたしは先を続けた。

「誰かの箒で空を飛んでいて、気が付けば畠と果樹園が広がるティリンツォーニ領だったの。一本の木が燃えているのが見えるの」

「夢の話と実際の記憶を分けてくれないか」

「わたしは幼かったのよ」

 医者がわたしの乳歯を数え、骨の発育から推定五歳と決めた。実年齢との誤差があったとしても僅差だろう。

 領民から報せがあり、領主が二人の息子を連れて畠に向かうと、葡萄棚の近くに幼いわたしがいたのだ。切り株に腰をかけ、わたしは農婦からもらった焼き菓子を俯きながら食べていた。

「ユディット」

 名を訊くとそう答えたそうだ。それがわたしの名になった。それ以外のことには、何ひとつ答えられなかった。

 わたしとセレスタンは子爵家の庭にいた。子爵屋敷は魔都の郊外にある。魔都の中心部にも別邸があって用事がある時はそちらを使うのだが、普段はこちらの、昔ながらの広大な敷地の方で過ごしている。水晶塔が遠望できる一等地だ。

 今後の予定をセレスタンに訊かれた。わたしは方々から舞踏会に招待されていた。

 もしわたしが本物の令嬢ならば冬の宮殿で開かれる貴族令嬢のお披露目会に招待されたはずだ。しかし冬の宮殿に行けたのはソフィアだけだった。残念でなかったといえば嘘になるが、舞踏会は大きなものから小さなものまで、年中あちこちでやっている。

「行けばいい」

「本物の伯爵令嬢ではないと分かるときっと失望されるわ」

「魔女が美人というだけで魔法使いにとってはお釣りがくる」

 微妙なお世辞は云えるのね。

 未婚の若い魔法使いにとっての舞踏会は、恋人や結婚相手を探す場だ。わたしはジュリオから求婚されている。魔法使いと踊る間も、そのことが頭から離れることはないだろう。

「浮かない顔だな。下手なのか」

「あなたはどうなの、セレスタン」

「士官学校で叩き込まれた」

「それなら練習相手になっていただけますか。お願いするわ」

 将来の嫁探し目的で舞踏会に集う魔法使いのことなどどうでもいい。社交界におけるわたしの第一の使命は、伯爵家の兄たちに恥をかかせぬことなのだ。


 手に手を取り身体を寄せ合って踊ることは時として語るよりも雄弁だ。軍人なのだから奥手なことはあるまい。くそ真面目なセレスタンはきっと、「このあたりで囁くように魔女に最初の声をかけ、魔女から返事を頂いたら微笑みかける」と教本に書いてあったらそのままそのようにするだろう。会話は、まずは天候について切り出してくるはずだ。

 結果からいうと、本当にそのとおりだった。

「どうかしたのか」

 堪えきれずにくすくす笑い出したわたしをセレスタンがリードする。庭を渡る風が若葉を揺らして翠の光が辺りに明るい。白い柱が丸屋根を支える庭の片隅のあずまやで鳥の声を伴奏にして踊っていると、気持ちが軽くなってきた。

「いいえ、仰るとおりですわ大尉。本当に心地のよい午後ですわね」

「魔都はいかがですか、ユディット嬢」

「お蔭さまで楽しく過ごしております」

「踊りがお上手です」

「ありがとうございます。見知らぬ方々ばかりで少々緊張しておりましたが、大尉の力強い導きに助けられております」

 ああこれがもし、練習相手が兄のアレッシオだったら今頃わたしは声を上げて笑い崩れている。こんな予定調和の、台本を読み上げるような会話が何よりも大切だというのだから社交界とはおかしなところだ。

「そう莫迦にしたものでもない」

 わたしの内心を読み取ったかのようにセレスタンが咎めた。わたしだって分かっている。相手が誰であろうが円滑に、友好的に、体裁を整えることは、悪いことであろうはずがない。そこでセレスタンもわたしもほとんど自動的に口をついて出るような定型文句を繰り出し続けた。

「お疲れになりましたか。こちらの椅子にどうぞ」

「ありがとうございます」

「本番では真面目にやれ」

「そうするわ」

「何か他に憶えていることはないのか」

 なんの話かと想ったら、先刻のわたしの空白の幼少期のことだ。

「あるのか」

 雲の影が落ちるようにわたしの顔が暗くなったのを見て、セレスタンは顔つきを変えた。

 眼の前にきらきら光る葡萄が見える。血と泥にまみれていたわたしは農婦の手で簡単に手当てをされていたが右脚にはもう感覚がなく、駈けつけた義父の領主はわたしを見るなり「医者を呼べ」と抱き上げた。

「父上。この小さな魔女はこんな脚で此処まで独りで来たのでしょうか」

「これは魔法による怪我です、父上」

「騒ぎ立てるな。ジュリオ、アレッシオ」

 城には戦時下であることを告げる旗が掲げられていた。わたしを抱き上げた領主は急ぎ城に向かい、後には畠の中でわたしを発見した農夫たちが続いた。

「一回や二回ならば見逃しますがね。続いたので、交代で見張りを立てていたのです。すると、小さな魔女が這うようにして作物泥棒にやって来たというわけです」

「領主さまこれを見て下さい」

 農婦が花を見せた。すでに萎れかけている。

「畠から物を取るたびに代金がわりに置いていったんですよ。だから最初から獣の仕業ではないと分かってました。きっと迷子でしょう。着ているものも上等です」

 領主は頷いた。

「すぐに身許は分かるはずだ。それまでは城で預かろう。それにしても酷い怪我だ。一体なにがあったのだ」

 ところが、身許は分からなかった。魔都だけでなく地方までくまなく問い合わせたのだが、該当する女児の行方不明者はいなかったのだ。

「それはおかしい」セレスタンがぴしりと云った。

 舞踏会の予行練習を終えた感想として、踊り相手としてのセレスタンは武官ならばさもこうであろうと想像したとおりだった。独楽のように振り回されているような心地が若干した点と、仕方なくやっているという露骨さを巧く誤魔化せば、皇后の相手でもそつなく務まることだろう。

 セレスタンはわたしの足許に身をかがめた。

「脚を見せてみろ」

「義父が名医を呼んでくれて何度か手術をしたの。もうすっかり大丈夫なのよ」

「少し遅れて引いていたぞ」

 淑女の脚を見たいだなんて何を云い出すの。あれだけ踊れたら十分でしょ。そんな些細なことに気が付くのはあなたくらいよ。

「魔法使いの棄子すてごならば身許の一切が分からぬように、記憶を消した上で捨てられるはずだ。しかし君は自分の名はユディットだと云えたのだ。棄子ではなかったということになる」

 すっかり武官に戻ってしまったセレスタンは調書を取るような調子だった。

「当時のものはまだ保管してあるのか」

「城にあるわ。わたしの着ていた衣の布地を切り取って方々の機織工場や仕立て屋に送りつけたそうよ。義父は人間界にまで手がかりを捜したの」

 魔法界と人間界は重なり合うようにして存在しており、空間の一部が共有されている。

「迷子。誘拐。いずれにせよ君を探している親族がいないのだな」

 わたしの方が気まずくなるほど、セレスタンの眼付は真剣そのものだった。仕方なくわたしは彼に云った。

「とにかくわたしは幼くて憶えてないの。当時のことを知りたいのならば、兄たちに訊いたほうが確実よ」

 夕焼け色の雲がきれいだった。不意にジュリオから結婚を申し込まれた時の一部始終を想い出した。あの日もこんな夕暮れだった。一体どうしたらいいのだろう。この世に兄から結婚を申し込まれる女はそうはいないだろう。

 ジュリオのことは嫌いではない。優しい兄だ。

 そしてジュリオのことを「兄さま」と呼ぶたびに、わたしの胸はちくちくと痛んできた。わたしは本当の妹ではない。素性も分からない。ジュリオと結婚すればこの寄る辺なさも消えるのだろうか。

 顎の下に手をあててセレスタンは何かを考え込んでいた。あずまやを吹き抜ける程度の風では、燕の尾のようなその軍服の裾はひらひらしないようだ。

 わたしがティリンツォーニの城に引き取られたのは、城主一家が先年に領主夫人を喪っていたことと無縁ではない。故人は妊娠中で胎の子も助からなかった。女児だったそうだ。それもあって領内に迷い込んだ少女を失った母子の代わりのように想い、「ぼくたちの妹にする」とジュリオとアレッシオが義父に頼んでくれたのだ。

 彼らは毎日わたしと遊んでくれた。そのうちに、領主を囲む食卓にわたしの席が用意された。なし崩し的にわたしは領主家族の一員として扱われていき、ジュリオとアレッシオがわたしの兄となった。幼いわたしは気が付けば領主のことも「お義父さま」と呼んでおり、領主も別段それを止めなかった。

 ジュリオから結婚を申し込まれた後、わたしは隠居屋敷を訪れてそのことを義父に打ち明けた。前領主である義父は「お前の好きにしなさい」と意味深な眼をして静かに云った。言外に「ジュリオと結婚しろ」と云われた気がした。

 結婚すれば伯爵夫人だ。同じ立場の魔女ならきっと迷わない。他に好きな魔法使いでもいない限りは。

「脚は本当に大丈夫よ」

 あずまやの庭椅子から立ち上がろうとすると、セレスタンが腕を取ってきた。わたしは彼の支えを断った。

「あなたこそ名誉の負傷の方は大丈夫なの大尉」

「俺が踊ったのを見ただろう」

 晩餐の席にセレスタンはいなかった。わたしが兄たちに訊けばいいと云ったのを真に受けて、箒に乗ってティリンツォーニ伯爵領に行ってしまったのだ。行動力抜群なのは結構だが護衛の方はどうなるの。わたしとソフィアは、明日は海に行く予定にしていたのに。

 就寝する時間になって、使いからすがくちばしで窓を叩いた。鳥の脚に括りつけられた筒から紙片を取り出してみると手紙は次兄アレッシオからのものだった。

 子どもの頃からそうしていたように、わたしが子爵家に滞在している間はソフィア

が客室にやって来て、眠る時も寝台を並べて長々とお喋りしながら寝ている。わたしはソフィアに向けて薄紙をひらつかせた。

「ソフィア。海に行けるわ」

 アレッシオからの手紙には、兄らしいくだけた挨拶と、大尉からの伝言が書きつけられていた。



》1-Ⅴ

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