第一章 Ⅲ
領外に出る時にはいつも軍属が尾行していた。或る日そのことを兄たちに訊いてみると、ジュリオとアレッシオは苦笑気味に教えてくれた。
気にすることはないよユディット。このティリンツォーニ家が皇家に反旗を翻した歴史があるからだよ。二百年も前の大昔のことなのだが、いまだに赦してはもらえないようだ。
子爵家の居間でソフィアはかぎ針を動かしてショールを編んでいた。
「それで、森林公園に現れた愚連隊を大尉は追い払ったのね。でもそれでは、肝心のユディットは独りで公園に残されていたことになるわね」
「わたしは木陰で眠っていたから、放置でいいと判断したそうよ」
声はかけたが目覚めないほど君は熟睡していた、とはセレスタンの弁だ。
子爵令嬢のソフィアは手許を休めずにわたしに向かって微笑んだ。
「ティリンツォーニ家が皇家に反旗を翻したなんて大袈裟だわ。二百年前の皇位継承権争いにおいて敗北した方に与したというだけよ。正面きって皇帝に反逆したわけではないのだから、監視の慣例なんて早く無くなるといいわね。でもそれでは、ジュノー大尉のような方ともお知り合いにはなれなかったわね」
「療養期間から本復帰するまでの余暇を使った肩慣らしにちょうどいいと、彼はこの任務を引き受けたそうよ」
そこへソフィアの兄のフリードリヒ子爵が居間に入ってきた。隅で図鑑を読んでいたヘルマンが「兄上」とフリードリヒに駈け寄る。ソフィアと幼い弟のヘルマンと、この家の長子フリードリヒは母親が違う。彼だけが前妻の子なのだ。
伯爵家から家出して親戚筋の子爵家に現れたわたしは歓待されたが、それには子爵家の複雑な家庭事情が少し影響している。ソフィアとヘルマンの母は後妻で、ヘルマンが生まれた後、家長は病没。つまりこの家は後妻とその二人の子、そして前妻の子で現子爵のフリードリヒという構成になっていて、どことなくぎくしゃくしているのだ。
「昨晩はお帰りではありませんでしたのね、フリードリヒ兄さま」
ソフィアが異母兄をちくりと咎めた。自分の屋敷なのに居心地が悪いのかフリードリヒは不在がちだ。
「子爵家を担うお立場なのですから、自重していただきたいわ」
「お嬢さん方お揃いでご機嫌よう」
いつものことなのかフリードリヒはソフィアを無視して、まとわりつくヘルマンを笑顔で抱き上げた。女たちとの関係はともかく、幼いヘルマンのことをフリードリヒは可愛がっている。ヘルマンにとってもこの異母兄が父親のようなものだ。本来であれば独立して外に家庭を持つはずの子爵がこの家にまだ居るのも、男親のいないヘルマンの為なのだ。
「セレスタン・ジュノー大尉を中心街で見かけたのです。あなたと一緒ではないので、少し心配したのですよ。ユディット嬢」
「大尉はご用事があって空軍本部に向かいました」
わたしは茶器を持ち上げた。
「もとより今日の午後は、大尉は病院に検査に行く予定がありました」
「彼の名誉の負傷はまだ完治していないのですか」
「治った、と本人は云い張っております」
わたしは紅茶を口にした。戦争末期に負ったセレスタンの怪我は、そのまま予備役になってもおかしくないほどの重いものだったそうだ。
「皇軍の英雄がこの屋敷に滞在してくれるなんて、わたしも鼻が高いよ」
フリードリヒはセレスタン贔屓だ。最初は宿舎からわたしの許に通ってくるはずだったセレスタンを、是非にと云って、屋敷の中に彼の為の客室を用意したのもフリードリヒだ。もっともそこには前述のような家庭事情が関わっている。緩衝材となる客人が滞在している方がこの家は平和が保たれるのだ。
「護衛が近くにいるほうがあなたも安心でしょう」
「そうですわね」
わたしは適当に返答した。屋敷は大きくて広い。何処にセレスタンがいようが、近所に住んでいるのと大差ない。どうせ護衛のふりをした監視なのだから、わたしには何の意見もないのだ。
戦場の英雄。敵地に取り残された銀燕隊士を救出に行き、重傷を負ったセレスタン。仲間を箒に乗せて、あの軍服の長い尾を引きずり、地べたを這うようにしながら傾いた箒で部隊に帰投してきたそうだ。
「勇敢だわ。遊び人のフリードリヒ兄さまと違って」
「そんな云い方は感心しないね、ソフィア」
「経過観察のために軍人病院に通うことが義務づけられているそうです。本人はむしろ力があり余っているかもしれません」
あのセレスタンがぼろぼろになっている様子なんて想像もできないが、そんな過酷な戦場を経てきた飛行士が休暇中とはいえ魔女の護衛に回されるなど、たとえ上官からの命令であっても軍歴の汚点だろう。つまり今日、森林公園で愚連隊を追いかけ回して魔法でぶっ叩いていたのは、彼なりの鬱憤晴らしであったのかもしれないのだ。
わたしは反省した。女の買い物や観劇に喜んで付き合う魔法使いなんかいない。時々は彼に息抜きをさせてあげないといけないわ。
「フリードリヒさん、近々、闘技場で何かよい試合がありませんか」
「闘技場とはまたどうして」
「観戦に行ってみたいわ。ソフィアの席もお願いします」
「箒球技の団体戦があったはずです。観覧席を手配しておきましょう」
「ぼくも行きたい」末弟のヘルマンが兄にねだった。
「もちろんいいよ、ヘルマン。男同士で今度一緒に行こう」
フリードリヒは幼い異母弟が可愛くてならないようだ。
「ぼく今度、大尉の怪我を見せてもらうんだ」
「だめよ、ヘルマン」ソフィアが声を出した。
「大きくなったらぼくも特務部隊の銀燕になりたい」
「空軍なんて危ないわ。駄目よ」わたしも止めた。
「ねえ、フリードリヒ兄上からも大尉にお願いして。名誉の負傷のお怪我を見せて下さい、戦場の様子を教えて下さいって」
「ヘルマン」
「軍人にとっては傷痕は勲章だよ、ソフィア」
「フリードリヒさん、わたしも反対です」
「きっと見せてくれるさ、なあ、ヘルマン」
幼いヘルマンがその気になって軍人を志したり、戦闘の話をきいて悪夢にうなされたらどうするのだ。しかしフリードリヒは大いにその気になっていた。
「大尉は勲章をもらった本物の武人だよ。何でも教えてもらうといい」
夜になってセレスタンが屋敷に戻ってきたところを待ち構えて昼間のことを伝え、わたしは念入りに彼に頼んだ。
「フリードリヒ子爵は男の子は誰でも一時期、熱病のように兵士に憧れることがあるものだとおっしゃるけれど、ヘルマンはまだものの分別がつく歳ではないわ。だからヘルマンがあなたの怪我を見たいと云っても、怖がらせたり愕かせたりしないように決して軍服を脱がないでね。そしてヘルマンが戦場のことを知りたがっても、十年後に教えてあげると約束をして、適当にお茶を濁しておいて頂戴ね」
効果は十分あったようだ。翌日、小部屋から出てきたヘルマンは蒼い顔をしており、足取りはよろけていた。そしてその幼い顔は固い決意に引き締まり、眸には熱っぽさを浮かべ、覚えたての軍人用語をぶつぶつと口にしていた。続いて室から出てきたセレスタンは軍服の襟元を整えながら、追い打ちをかけるようにしてその小さな背中に、「空軍はいつでも君の入隊を待っている」と声を掛け、わたしはセレスタンを階段から突き落としてやろうかと想った。
魔都滞在を勧めるにあたり、次兄アレッシオは終戦祝いの記念式典や祭典が連日のようにあることを挙げた。
「お祭りを愉しんでおいで」
一年前、終戦の報せが帝国中を駈け巡ったが、折り合い悪く皇帝の母である皇太后が重篤で、その後に崩御したため、一年間は大掛かりな祝賀が見送られていたのだ。その喪が明けた今年は、今までの自粛を吹き飛ばすかのように華やかな祭りが魔都のあちこちで目白押しとなっていた。
「休戦を挟みながらも十五年。そうはいっても帝国内は安泰で、戦場ははるか遠くの、大山脈地帯の向こう側だったからな」
蝋燭と水晶灯が料理の盛られた銀器を照らし出す。夕食の席でフリードリヒは盃を傾けた。
「魔都にいてはまるで戦争の実感がなかったよ。ティリンツォーニの方はどうでしたか、ユディット嬢」
「森に囲まれた田舎です。もちろん日々は穏やかに過ぎておりましたわ」
「終戦といっても終戦協定を結んだわけでも、敵方を殲滅したというわけでもないそうですが、そこはどうなのです大尉。叛乱軍はまた攻め寄せてきますか」
「攻防線からは完全に撤退させました」
晩餐の席でセレスタンは手短にそれだけを応えた。
二百年前、叔父と直系皇子が皇位継承権を巡って争い、皇子の方が破れた。
その血統が今も続いており、十五年前突如として、真の皇帝はこちら側であると帝国に宣戦布告してきた。彼らは自らを東帝国と名乗り、『黒天馬』と呼ばれる攻撃に特化した魔法使いを揃えて、武力でもって皇帝に退位を要求してきた。
これに対し、即位直後の青年皇帝ベルンハルディンは討伐隊を派遣したが、討伐隊は全滅。それに怯むことなく新皇帝は譲位を求める東帝国からの使者を自ら斬って棄てて、ここに戦はひらかれた。
なお、東帝国はこちら側からは単に叛乱軍と呼ばれている。
使者を魔法で斬って棄てるだけあって、新皇帝ベルンハルディンは歴代皇帝の中でも珍しいほどの好戦的で激情型の武闘派だった。
使者の首を刎ねた青年皇帝は、東方との境の大山脈地帯に赤い線を引き、この防衛線に空挺師団を投入。初戦は帝国空軍が黒天馬を追い払い、東側まで深追いして行った。その際、新皇帝ベルンハルディンは自ら戦場に赴いて箒を飛ばし、将兵に檄を飛ばすところまでやってのけた。
「それにしても何故、今頃になって」
誰にもその理由は分からなかった。そもそも帝国では東帝国など存在しないことになっている。わたしが習った歴史の教科書にもその記述はなく、大山脈地帯より向こうは地図の端からも切れていて、未開の大陸としか知らされていなかった。
戦争は叛乱軍の完全撤退をもってようやく終結した。前線にいたセレスタンはその終局大戦において負傷し、戦線から後方に送り返されている。
「私服でお願いできないかしら、セレスタン」
銀燕を従えることになったわたしは悪目立ちすることに閉口した。魔女の護衛など本来は精鋭の銀燕がやることではない。
「せめてその上着を脱いで下さらないかしら」
「それは構わないが、箒は空軍のものだとすぐに分かるぞ」
彼から云われて、諦めた。
赤い空に砲煙の煙が棚引いている。魔法砲弾の音が鳴るたびに大地が揺れ動く。叛乱軍は魔法を使った兵器を開発し、命中すれば四方が吹き飛ぶほどの殺傷力を持って皇軍に迫った。それを皇軍の魔法使いが魔法杖を揮って無効化し防御する。丘の上に構えたベルンハルディン皇帝の陣。宵闇の空に細長い皇帝旗がひらめいている。その頭上に飛び交っているのは箒に乗った銀燕だ。着陸してはまた飛び立つ。戦場における彼らは戦況報告と伝令の任にあたっているのだ。
わたしは戦場に行ったことはない。でも何故かありありと眼に浮かぶ。曳光弾が空を照らす。雲が燃えている。黄昏の空に幾筋もの流れ星が尾を曳いて堕ちていく。あれは敵の魔法で撃ち落される銀燕たちの影だ。
今のうちだ。逃げるぞ、ユディット。
誰かがわたしを抱え上げて箒に乗せた。
右脚に焼けるような痛み。沢山の箒がわたしたちを追っている。
》1-Ⅳ
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