第一章 Ⅱ
セレスタンと出逢ったのは三ヶ月前のことだ。魔都に向けて箒で飛び立ったその夜、ティリンツォーニの城が地平線に消えたあたりですごい勢いでわたしの箒に並んできた魔法使いがいた。月光を弾くようにして濃灰色の箒は飛んできた。
「どなた」
「どちらへ行くつもりです」
暗闇から厳しい声が返ってきた。わたしは問い返した。
「わたしがティリンツォーニ家の者と知った上での無礼ですか」
すると箒に乗った彼は夜風の中から、「ユディット嬢ですね。存じています」と回答してきた。
魔女のわたしは夜でも多少眼が見える。わたしに接触してきた箒の柄頭には空軍の徽章が光っていた。軍服の裾が特徴的に二股に長く分かれている。空軍将校だ。
「空軍の方ですの」
「こんな夜間に何処に行くつもりですか。戻って下さい。お送りします」
わたしは困ってしまった。黙って城から出てきたのだと打ち明けるべきだろうか。
「魔都の子爵家に行くところです」
「こんな時刻に。お独りで」
「ちょっとした事情がありますの」
「事情次第では遣いを承ります。とにかく一度、ティリンツォーニ領まで戻って下さい」
有無を云わさぬ口調だった。どうしたらいいの。
黙っていると、彼は眉を寄せた。その夜のわたしは相当に切羽詰まった顔をしていたはずなのだ。
「ユディット嬢。理由をお訊きしてもよろしいですか」
詰問口調は変わらなかったが、心なしか、彼は少しだけわたしの様子を気にしているようだった。
わたしは想い切って箒を並べている彼に打ち明けた。
「家出をしてきたのです」
「家出」
「城に置手紙はしてあります。魔都の子爵家に行くとも書きました。見逃してもらえませんか」
「家出とは穏便ではありません。なぜ」
結婚してくれないか、ユディット。
「結婚を申し込まれたのです。領主である兄のジュリオから」
わたしの顔と名を知っているくらいなのだから、家の事情もこの士官は知っているだろう。わたしがティリンツォーニ家の者ではないことも。
城の庭園に呼び出され、長兄ジュリオから結婚を求められたわたしはもちろん愕いた。そしてどこかで予期もしていた。やはりこの日が来てしまった。わたしが大きくなるにつれて、ジュリオの優しさには魔法使いが魔女に対してみせる優しさも入っていたからだ。
ジュリオから結婚を申し込まれた後、わたしが自室に籠っていると、次兄アレッシオがやって来た。わたしは歳の近いアレッシオと仲が良かった。
大きくなったら兄上か、ぼくか、どちらかのお嫁さんにしてやるよ。
よくわたしの頬をつねって揶揄っていたアレッシオは、伯爵家に引き取られておきながら養子縁組をしなかったその理由を、そんな方法でそれとなく幼いわたしに教えていた。
ユディットをわが家の養女にしない理由はね、お前が本当の妹になってしまったら、ぼくたちとは結婚できないからだよ。
「莫迦だな、あんなのは子どもの頃の冗談だよ」
いつものようにわたしに軽口を叩こうとしたアレッシオはわたしの顔をみてそれを止め、窓辺にいるわたしの隣りに腰かけた。
「育ててもらった恩なんか一切感じることはないんだぞ、ユディット」
「アレッシオ」
「迷子のユディットを城に引き取ったのも一時預かりのつもりだったのだ。ずっと兄としてみていた男を好きになんかなれないよな。兄上に返事はもうしたのかい」
わたしは首をふった。
「ぼくから兄上に断ってやろうか」
アレッシオはそう云ってくれたが、それに対してもわたしは首をふった。
「このことは、お義父さまもご存じだそうよ」
わたしを城に引き取って養育してくれた義父は数年前に跡目を長子ジュリオに譲って城の近くに屋敷を建て、そちらに隠居している。十八歳になったわたしは、そろそろ結婚の話が具体的に持ち上がる年齢だった。義父は常々「ユディットの将来はちゃんと考えている」と云ってくれていたのだが、やはりそれはこういうことだったのだ。当代領主ジュリオとの結婚。
「アレッシオはどうなの。わたしたちの結婚に賛成、反対」
「反対」
「わたしはジュリオ兄さまのことが好きよ」
「好きの種類が違う」
「お義父さまがわたしを養女にしなかった理由は、ジュリオ兄さまと結婚させるためではなかったの」
「だから、あんなのは冗談だよ。お前が本気にしているとは知らなかった」
声を上げて笑うと、アレッシオは、前領主である義父がわたしを家族の中に迎え入れながらも、養女にはしなかった本当の理由を教えてくれた。
「ユディットの本当の両親がまだ何処かにいるかもしれないからだよ。その可能性がある間は父上も手続きに踏み切れなかったのだ。ややこしいんだよ、貴族の養子縁組は。それとは別に、ジュリオ兄上とユディットの結婚を父上が願う気持ちも確かだろうな。だからといってお前が犠牲になることには断固反対」
「ジュリオ兄さまは、返事はいそがないと云ってくれたわ」
「だったら室から出てこいよ」
「気まずいからまだ無理」
顔を合わせたくなくて自分の室に閉じこもっていると、一度ジュリオがやってきた。ジュリオは室の外から扉を叩き、「兄妹だよ。そんなに悩むのなら求婚のことは忘れて欲しい。わたしが急ぎ過ぎたのだ」と優しく云った。扉越しにわたしは「もう少し時間を下さい、兄さま」と返事をした。
「そうだ。しばらく魔都に行っておいで、ユディット」
アレッシオはいいことを想い付いたとばかりに顔をかがやかせた。
「いったん、ぼくたちと離れて考えてみるんだ。兄上と結婚したら伯爵夫人。もし兄上の求婚を断っても、兄上とぼくはユディットをちゃんと良家に嫁がせてあげるから何の心配もいらない」
「ありがとう」
わたしは作り笑顔でアレッシオの気遣いに感謝した。これからのことを考えるのに、彼らから一度離れて魔都に行くというのは確かにいい案に想えた。
「魔都の子爵家に行っておいで。あそこなら子どもの頃から何度も行っているし、ソフィア嬢もいる。子爵家ならぼくたちも安心だ」
「そうね、アレッシオ」
想い遣り深い眼をしてアレッシオはわたしの手に手を重ねた。
「兄上とぼくのことを嫌いじゃないよね、ユディット」
「もちろんよ」
わたしは頷いた。彼らに拾われていなければ、わたしは黒い森の中で野垂れ死んでいた。
アレッシオがおやすみの挨拶をして室から出て行くと、わたしは窓辺に立ち、冷たい窓硝子に額をつけた。
考え続けて疲れてしまった。本当に魔都に行ってしまおう。誰にも見られないように、今晩のうちに。
森に囲まれた城の上に星が出ている。音が鳴り出しそうなほどの美しい星空だった。
箒に乗ってこっそり出ていくつもりが見つかってしまい、困っているわたしに構わず、空軍将校は無遠慮に確認をとってきた。彼の乗っている軍用の箒は見るからに重厚で、夜風を切り裂くようだった。
「ティリンツォーニ伯爵から求婚されたと。いつ」
「三日前のことです」
「家出先は懇意にされている魔都の子爵家ですね」
「そうです。何度も訪問していますから独りでも行けます」
「なるほど」
それきり彼が黙っているので、わたしは仕方なく彼に説明した。
「誤解のないように願います。結婚を無理強いされたわけではありません。少し動揺しているだけです。わたしにとって、ジュリオは兄でしたから」
初対面の軍人に何を話しているのだろう。そう想いながらも、わたしは後ろを気にしていた。深夜のうちに飛んで魔都には朝に到着するはずだが、家出に気が付いた誰かが追いかけてくるかもしれない。
「少し考える時間が欲しいのです。この家出のことは次兄アレッシオも知っていることです。ですから心配は不要です」
その間にもわたしの箒は魔都に向けて進路を取っていた。やがて空軍士官は口を開いた。
「そういったご事情でしたら、魔都まで護衛します」
「あなたが」
「銀燕隊セレスタン・ジュノーです」
自己紹介すると、彼は少しだけ前に出て、わたしの箒を先導しはじめた。わたしは時々後にしてきた城のある方角を振り返っていたが、その視線は次第に、彼の軍服に向けられた。
「なにか」
「その制服の尾です」
「これが何か。ユディット嬢」
青灰色の軍服の、二股に長く分かれた上着の裾が、犬の尻尾のように夜空を叩いてぱたぱたと踊っている。
「その裾。地上から見ると、
「そちらに合わせて今はゆっくり飛んでいるからです」
実にだるそうにセレスタンは応えた。魔女の箒の速度など、彼からすれば停止しているも同然だったのだろう。
夜空は群青の海のようで、星は砂金だった。その中を箒で進むわたしたちの頭上には星座が静かに瞬いていた。やがて箒の先に夜明けの魔都が見えてきた。
意外だったのは、子爵家に到着してからも引き続きセレスタン・ジュノー大尉がわたしの護衛に就いたことだ。正式の命令が出たといって、彼は子爵家に現れた。
「ご存じだと想うけれど、わたしはティリンツォーニ家の者ではないわよ」
「家族同然に伯爵家で育ったのだ。君の名もしっかり護衛対象として登録されている。養女でないのが不思議なくらいだ」
「お気の毒に。たまたまあの晩、わたしの姿を見かけたばかりに」
あの日の当直はセレスタンだったのだろうか。
「違う」
彼は偶然近くにいたそうだ。
「夜空を飛ぶ君の姿と、その後を追っている当直を見た。当直には引き返すように告げて、俺が当直の代わりに君を追いかけた」
「あの空域でセレスタンは何をしていたの」
「退屈していた」セレスタンは実感をこめてそう云った。
傷病軍人専用の施設が近くにあり、戦争で重傷を負ったセレスタンは、そこで療養生活を送っていたのだ。
「暇だったから丁度いい」
白手袋をきっちり手にはめると、「それで、本日はどちらにお供をしましょうか。ユディット嬢」とセレスタンはわたしに訊いた。
その日から、彼は護衛の任務を淡々とやり続けている。護衛という名目だが実際は監視だ。わたしにはそれを断ることは出来なかった。
ティリンツォーニ家の者が所領の外に出る時には、軍の監視が必要なのだ。
》1-Ⅲ
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