第9話 バットいっぱいの極厚フォカッチャ
ピザ生地のおばけ――大量のピザ生地がバットの中で過剰に発酵しすぎて膨らみ、一つの物体と化した物。
現実世界でも、たまにバイトが呼び寄せていた。
バットにべったり張り付いたそれらをピザにするのは、至難の業。
「どうしてこんなことに……」
「その……起きてきたら、店長が外の掃除をしていたから、オレが朝食にピザを焼こうと思って……」
申し訳なさそうに、ラディルは説明を始める。
昨日マリカ様が帰った後に、ピザの焼き方を教えたんだった。お腹が空いたときに、自由に焼いて食べていいよって。
作り置きのピザ生地もたくさんあって、早く食べないと悪くなっちゃうしね。
それでラディルは、自分でピザを作ろうとしたのだろう。
「ピザ窯に火をつけて、食材を出したところで、お腹が痛くなっちゃって。ちょっと離れるつもりが、すごく時間がかかって……トイレから戻ってきたら、こんなことに……」
「なるほど」
料理が作れるからと言って、トラブルを起こさないというワケではない。
調理場の勝手に慣れておらず、失敗してしまったのだな。
「窯に火をつけて気温が高くなったところに放置して、ピザ生地の発酵が進みすぎちゃったのか」
「ごめんなさい……」
確かバットに残っていたピザ生地は、全部で九枚分だったか。膨張合体した姿は、なかなか強烈だ。
ラディルは申し訳なさそうに、頭を下げる。
まあ、こういう見た目の派手な失敗をしちゃうと、精神的なダメージが大きいんだよな。
「あの、この生地、どうしましょう……?」
「大丈夫。こいつには、フォカッチャになってもらう」
「ふぉかっちゃ?」
俺はピザ窯の火を消し、コンロ下のオーブンに火をつけた。
分厚く膨らんだ生地はピザ窯で焼くと焦げてしまうので、オーブンでじっくり火を通す。
オーブンの庫内が温まるまでの間に、生地の準備を進める。
「フォカッチャっていうのは、ピザの原型になったと言われるパンのことなんだ」
生地を均すために、何度かバットを持ち上げて調理台の上にパンパンと落とす。
均した生地の表面に、指で何か所か穴を開けていく。
それからオリーブオイルと、先ほどニルギさんから購入したローズマリーを用意する。
「こうやって均して穴を開けたピザ生地に、オリーブオイルを塗っていく。その上から、塩とローズマリーを散りばめるんだ」
「すごい……もうパンみたいです」
指で開けた穴の中までたっぷりオリーブオイルを塗り、フォカッチャの生地の完成だ。
これを温まったオーブンに入れて、二十分ほど焼いていく。
「焼きあがるまで時間がかかるから、サラダとスープを作ろうか」
「はい!」
スープに入れる野菜の、玉ねぎ、にんじん、キャベツ、じゃがいもを一センチ角に切る。
コク出しに、ウインナーの輪切りも入れよう。
野菜を切り終わったら、手鍋にオリーブオイルを入れ刻みニンニクを炒めていく。
「美味しそうな香りです」
「だろ~?」
ニンニクの香りがしっかりしてきたら、ウインナーと野菜を入れて炒める。
全体に油が回ってしんなりしたところに、トマトソースと水を加え煮込む。
火が通って味が馴染んできたら、味見をして塩味を調整。
ミネストローネの完成だ。
「味見するか?」
「はい!」
味見用の小皿にスープを入れ、ラディルに渡す。
ゆっくりと熱々のスープをすすった彼の目が、一気に見開く。
「すごく、美味しいです!」
「そうか、良かった」
ラディルの素直な反応が可愛いんだよなぁっと思いながら、サラダの準備にとりかかる。
サラダ皿にレタスを盛り付け、トッピングを選ぶ。
「サラダのトッピング、肉と魚介、どっちがいい?」
「お肉で!」
「あいよ」
冷蔵庫から切り置きしてある生ハムを取り出し、レタスの上に並べた。
焼きあがったフォカッチャに挟んで食べたら、豚の油が溶けて美味しいだろう。
「そろそろ焼きあがったかな」
オーブンからバットを取りだすと、見た目はなかなか綺麗な狐色の焼き色をしている。
何か所か竹串で刺して、焼き具合を確認。少しだけ、まだ生地が少し緩い箇所があるな。
「焼き色は良いんだが、中はもう少しだな」
表面を焦がさないように、もう少し火を入れたい。
バットの表面にアルミホイルを被せ、再びオーブンの中に入れる。
すぐに焼きあがると思うから、皿やドリンクを用意しておこう。
「牛乳とオレンジジュース、どっち飲む?」
「牛乳お願いします!」
お、ラディルは健康優良児じゃん。たまには俺も、牛乳飲もうかな。
二人分の牛乳をグラスに注ぎ、スープもカップに入れる。
「ラディル、テーブルに料理を運んじゃってくれ」
「はい!」
「フォカッチャもそろそろ焼けたかな」
配膳をラディルにお願いして、俺は再びフォカッチャの焼き具合を確認した。
今度は中までしっかり焼けている。
「ほら、ラディル! フォカッチャ焼けたぞ」
「うわぁっ! すごい! 大きい!!」
コンロの上にバットを置き、端の方から二人分のフォカッチャを切り出す。
パン切包丁で表面をザクザクと切っていくと、小麦の甘い香りが立ち上ってゆく。
「どのくらい食べる? 俺はこのぐらい切るけど」
「じゃぁ、ここまで切ってください」
「オーケー」
俺たちはワイワイ言いながら、フォカッチャを皿に盛る。
切り出されたフォカッチャは、高さが五センチくらいある極厚パン。
これはなかなか、食べ応えがありそう。
焼きたてのフォカッチャをテーブルに運び、俺たちは食事を始めた。
「あっつ! んんっ! 美味しい!!」
「そんな一気に口に入れて、火傷するなよ」
「はひっ!」
真っ先に、焼きたてフォカッチャに食いついたラディル。
冬でもないのに、フォカッチャを食べた口からは湯気がのぼっている。
彼の様子を見ながら、俺もフォカッチャを口にした。
「カリもちで、良い感じに焼けてるな」
生地の表面はオリーブオイルをたっぷり吸って、カリッカリに焼きあがっている。
その下のモチモチの白い生地からは、温かくて優しい甘み。
焼き目の塩味とのコントラストで、味わい深い仕上がりになっていた。
「こんなに美味しいパン、初めて食べました!」
「ははは、そんなに褒めるなよ~」
「それに、スープも美味しいです」
分厚いフォカッチャと食べるなら、トマト系のスープだと思って作ったミネストローネ。
実は俺は酸味が苦手で、トマトもあまり得意ではないんだが……。
フォカッチャの甘みと塩味を一緒に食べることで、トマトの酸味をまろやかにして、スープの旨味を堪能することができる。
本当、味の組み合わせというのは、不思議なものだ。
「こうやって、熱々のフォカッチャに生ハムを挟んで食べるのも、旨いんだぜ」
残りのフォカッチャの中央を手で割き、真ん中に生ハムを挟む。
生ハムの白い脂の部分が溶け、周囲に染みわたる。
ほどよく馴染んだところを食べると、肉の甘みと塩気が口に広がっていく。
あ~、幸せな味だ~。
「本当だ! 甘じょっぱくて美味しい!」
俺たちはどんどん食べ進め、あっという間に朝食を食べ終えてしまった。
朝のピザ生地おばけ事件が、すっかり昔の事のように感じる。
「あんなにドロドロになってたものが、こんなに美味しいパンになるなんて、思ってもみませんでした」
「ははは。怪我の功名、ってやつだな」
「ケガの……?」
「失敗だと思ったことから、意外に良い結果が得られることだよ」
「ああ!」
すごく落ち込んでいたラディルも、すっかり元気を取り戻している。
良かった良かった。
「フォカッチャ、まだあんなにたくさん残って……。しばらく、食事はフォカッチャですね」
「うーん。でも時間が経つと、パンってすぐ不味くなるんだよ」
「ええ!? じゃあ、すぐ食べちゃわないと……」
「いや――」
ピザ生地九枚分のフォカッチャ。パンでの食事量で言うと、十八人前といったところだ。
二人で美味しく食べるには、限界があると思う。同じものを食べ続けるのも、俺が飽きちゃうし。
それよりも、色んな人に食べてもらいたい。
「せっかく美味しく焼けたし、今日はパニーノを作って、売ってみようと思う」
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